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第19話

-漣-  気になるクラスメイトがいます。朝のニュース番組のちょっとした人生相談のコーナーで読まれたメールの一文が頭にこびりついた。奴の存在は腫物か腫瘍に変わって着実に大きくなり、悪化している。欲に負けるたび。この感情に名前を付けてはいけない。おそらく。その姿を目にするのは苦しく腹立たしい。それでもあの声を聞かないでいれば飢渇(きかつ)し、消費してしまう。よく笑いよく話し、素直で快活な奴を汚す。そのことに深い満足感を覚え、そんな自分が怖くなる。くだらない妄想の中ですら奴は俺に気付きもしない。俺に使われていることも知らずにまるで誰にでも笑いかけて、誰にでも話しかけて、クラスは明るくなる。誰にでも平等で、太陽みたいだ。それなら俺は、牢の中の罪人か。そんな極論めいた話じゃない。結局は傷付けることも傷付くことも恐れた半端者だ。ただもし、少しでも奴と近い距離を感じてしまったら、次は無理矢理にキスするだけじゃ済まなくなりそうだった。笛木の読みは間違っている。  捕まえていた。どうして裏校舎にいる?壁と腕の間に閉じ込めているのは俺のはずなのに頭を抱えた。奴によく似合う晴れた日の花畑でモンシロチョウを追いかけるみたいな、そんな流れですれ違ったこいつを、誰かも確認せず、ただ反射がその腕を捕まえていた。一瞬の判断に臆病になって、裏校舎北側、西陽も入らない防火扉の暗い場所に俺ごと押し込んでいた。大きな目が俺を見上げて、俺だと分かった瞬間顔を背ける。泳いでいる大きな目を追った。こいつの漏らした驚きの声がまだ耳に残っていて、そればかり繰り返し聞いていたら何を言うかもまったく浮かばずにいる。普段は(やかま)しい口は無言を貫いていて先に喋らせてみたくなる。クラスを盛り上げて、照らす唇は実は蕩けるように柔らかい。一体他に誰が知ってる?遊んでそうでいて意外にも擦れていないこいつの唇が甘いことを。 「能登島…」  あの欲に屈服した時の癖で俺は思わず呼んでしまった。大きな目が俺を見る。ただそれだけの動作だった。それでも罪悪感が被害妄想に陥らせる。本当の被害者はこいつなのに、こいつに軽蔑されたように心地になる。少しだけそれが気持ち良くもあった。被虐趣味はないはずだ。ただ俺よりも背が低くて、人懐こくて真っ直ぐなこいつに蔑まれる。こいつだから、理性を裏返したところで少し気持ち良く感じてしまう。俺が無理矢理塞いだその唇から罵詈雑言が出やしないかと期待している。こいつの中を掻き乱せないのか。たとえ憎悪や嫌悪でも。 「ご、めん…」  能登島は蚊の鳴くような声で謝った。他に何も言うことはない、そんな調子で。だって何に対する詫びなのか分からなかった!顎を掴んでまたキスしてしまう。後頭部が壁にぶつかる音がした。 「ンぁ、」  暗い中でそのまま溶けそうだった。俺の抱えた腫瘍がそのまま破裂してしまえばいい。壁と傷んだ髪の間に手を差し込んで、もうどう動かれようと逃がさなかった。舌を噛み切られても放すつもりはない。上手いことを言えない舌を喰らってくれ。血飛沫ごと飲んでくれ。自棄になる。身体全体で能登島を追い込む。制服越しに合わさる感触に煽られて、さらに壁に押した。圧死させかねない。シャンプーと能登島の家庭の匂いがする。 「…っゃ、っあ、」  苦しげな吐息に混じる声をもっと聞きたい。 「は、……ッん、」  必死になって、俺まで声を漏らして恥ずかしくなる。能登島に聞かせたくない。 「ンぁ…く、」  シャツの擦れる音がした。唇だけ差し出して能登島は俺を拒まない。それでも舌は従順で、舌先から根元まで俺の意のままだった。巻き付いて、もっと奥まで入りたくなる。ざらついた質感も滑らかな質感も、(とろ)んだ底もすべてに俺を塗り込みたい。壁伝いに力が抜けていく軽い身体を、奴の腿の間に膝を割り入れて支える。猫が懐いて甘えた時のような鳴き声が漏れ出て堪らなくなった。 「能登島。いつまで待たせるつもりなんだ」  外野の声に汗ばんで暑くて仕方なかった俺の身体は一瞬で冷えた。緋野だ。俺と能登島の姿をしっかりと見ているのにそのことについては何も追及しない。ただ冷ややかに、確実な軽蔑を持って俺を見て、そして俺の腕の中の能登島に視線を移す。 「緋野せん…ぁっ」  すり抜けようとする奴を行かせなかった。腕を引いてまた口付ける。(たわ)んだ2人分の唾液が切れる直前でまた口腔に舌を這わせた。堕ちるところまで堕ちろ。思い切り拒絶された時、もしかしたら大きくなっていく腫瘍の苦しみから解き放たれるかも知れない。 「んァ、」 「しょうた、おいで」  授業中では聞いたこともない優しい緋野の声音に能登島の身体が強張った。俺の胸を慎重に押そうとする手首を掴む。そのまま緩んだ拳の中に手を割り込ませ、指を絡めた。汗ばんだ掌の肉感を愉しんでいる間もなく握り締める。 「…んンっ、ぁ…緋野せん、せ…」  能登島は顔を背けて唇を離す。繋いで手を怖がりながら引こうとする。拒絶されてまた燃える。意地悪をしたくなってまた口付ける。浅く啄むつもりが3度で我慢が利かなくなる。 「ぅん…ゃァッ……っンく、」 「しょうた」  緋野のほうを向こうとする頭を押さえた。舌先を捕らえて回した。また奴の冷たい口腔で縺れる。何もかも甘い。下腹部に熱が集まっていることをそろそろこいつにも気付かれそうだった。 「しょうた、先に行って待ってる」  緋野は愛犬や愛猫でも呼ぶかのような柔らかい声をしていた。別人かも知れない。反応するように能登島の喉が小さく波を打つ。2人分の唾液を飲み込んだそれはまるで固唾を飲み、覚悟を決める意味合いが籠められているみたいに思えた。能登島は抵抗せず俺を受け入れる。いや、もしかすると抵抗は許されないとでも思っているらしい。また学校に連絡され、次は退学を余儀なくされるとでも思っているのかも知れない。被害者であるはずなのに。そして俺はそんな卑劣なヤツだと思われている。実際、そんな事情に付け入っているも同然の、それ以上の卑劣なヤツじゃないか。 「ショータを離しなさいよ!」  肩を掴まれ、振り返った瞬間頬を打たれる。打たれたというよりは拳の骨で押し退けられた感じだった。勢いよりも骨の固さばかりが勝る。 「あ、」  能登島の声が聞こえた。それよりも笛木の声が聞こえた気がする。 「最the低。マジ無いわ。ナッシングピーポーマックス」  よろめいた隙に笛木は能登島を奪い取っていた。 「だいじょぶ?ショータ。ほら、お逃げ」  能登島は俺と笛木を怯えながら交互に見た。 「でも…」 「あ~、だいじょぶ、だいじょぶ。みっしーとあーしはマブダチだからね。こんなとこ、しぇんしぇに見られちゃマズイっしょ、じゃ」 「…ご、ゴメン」  能登島は笛木に背を押され、走り去ってしまった。緩みきった笛木の表情が2人きりになった途端に引き締まる。 「あーしが煽ったから?」 「いいや」 「なら良かった。ショータを傷付けたのはまったく何もかも良くないケド」 「何故ここに来た」  笛木はクラスでは絶対に見せない挑発的な笑みへと変わる。 「緋野しぇんしぇ、ここ来たっしょ」 「…さぁな」 「理科準備室に行ったんだと思うな。違ったらメンゴだケド。弁解(いいわけ)、してきなよ。みっしーからやったんですってね。ショータは被害者だから怒らないでくださいってさ」  肩を竦め、その目は俺を離さない。緋野と比べるとまだ随分と緩んだ表情をしているが眼差しには緋野にはなかった咎めるような色が込められている。 「言われなくても」  俺は理科準備室に急いだ。 -夕-  ボケーっと放課後の校内を散歩した後、いちごミルクを片手に校庭の礁太を眺めた。ゴールを決めた。サッカーは上手いみたいだけど家庭の事情でバイトやってるからレギュラーにはなれない。よくやるよ。辞めたらいいのに。いいや、レギュラーになれなくてもサッカーやってる礁太は素敵。すっ転んで膝擦り剥く礁太はもっと素敵。ゴールポストに顔面ぶつけて頭切っちゃう礁太はもっともーっと素敵。姉ちゃんに買ってもらったとかいうシューズが光って見えた。あれがある限り礁太はサッカーを続けるんだろう。痩せてまともに飯も食えてないくせに。一応菓子パンでも食べられるだけマシか。家の経済(カネ)の話はタブーだからね。同じ人間、平等だなんて上手いこと教えられて育つけど、ある程度物が分かってくれば世間に広がってるのは格差社会じゃないか。そこには遺伝的な能力に限らず運だの環境だの選択だのプライドだのはあるんだろうけど。スマホが鳴って迎えが来たことを知らされる。今日は定例会で、ボクも顔出さなきゃいけないらしい。親が優秀な遺伝子じゃなかったら、生まれた子供はどうしたらいいんだ。稼ぎも知らない甲斐性なしだったら。ボクはどっちなんだ。教室を出て迎えの車を探した。空の模様なんてシャレてるじゃん!って思えば磨かれ過ぎて青空が反射してるだけだった。この感想ももう数万回目じゃない。運転席からスーツの男が出てき後部座席を開けてくれる。その間も助手席と後部座席から他にも2人の黒スーツが出てきてボクの周りを見張った。この国は法律で警察官以外は銃を持っちゃいけないのに、銃を持っちゃってる輩がボクを狙ったり、或いはボクを迎えに来たこの人たちを撃っちゃう可能性があるんだってさ。そんなこと言ったら、今目の前を通った買い物帰りの奥さんを通り魔が刺す可能性だってあるわけで。ただそれよりもずっと高い可能性で、殺人よりも重く置かれる意味合いを持っちゃうんだってさ。殺人よりも重く置かれる意味って何さ。ボクやこの人たちが殺されるより悲しい…っていうか、もっと重視しなきゃいけない事情があるって何さ。「若様」なんて呼ばれて絵本のお姫様よろしくボクは車に乗せられる。この人たちをタクシー運転手とかみたいに考えて、でもそんな金とサービスで繋がった関係でもない。生まれる家を選べないんだよな、当たり前だよ、決まった両親からじゃなきゃその人は生まれないんだから。雲に乗って自分で親を選ぶんじゃない。コウノトリが適当な家庭に連れて行くのでもない。この家にしかボクは生まれないからそんな不満は意味を成さない。だからどうして、その気のないボクが精子競争になっちゃってたのかってこと。稼ぎもない甲斐性なしが一番優秀な遺伝子だったなんて子供が知れたら、どうするんだろう?格差は開いていって、ボクはそのピラミッドを俯瞰して、訳の分からない苦しみを覚えて気持ち良くなる。ボクもそのピラミッドに参加できたらこの気持ち良さから解放されるのかな。  定例会の会場で親父に会う。もうよぼよぼで杖付いて、眉毛の端から顎にかけて大きな傷がある。これが親父の偉くなったきっかけでもあるらしい。顔を合わせるたびに「お前は俺に似ねぇなぁ」とかなんとか言ってボクの肩を抱く。男の子は母親に似るもんなのさ。久々に顔を合わせた親父は年寄り独特の樟脳みたいな匂いがした。とかいっても60、70くらいの、まだ世間で見ればある程度元気な歳なのに身体に入ってるお絵描きがこの親父(ひと)の内部から健康を奪ってんだろうなって。だってあれ、確かインクに金属の成分入ってなかった?それに気付かないで、ボクの成長が止まったら、もっといえばあと3年、早かったら1年、長くても4年で、この清廉潔白な背中に刺青入れられるんだもんな。勲章で、家族の証らしい。そしてボクは日向を歩けなくなる。まず間違いなくプールには行けなくなる。もうその頃になったらプールになんか行かないっしょ。誰と行くんだよ?礁太と?苦笑(わらっ)ちゃうね。  定例会は顔中に傷あったり厳つい皺だらけだったり、眼帯付けてたりオールバックだったりスキンヘッドだったりでとにかくおっかなかった。そのくせスーツは喪服みたいに真っ黒と白って感じじゃなくてそれなりに色があってシャレていた。電気もダウンライトでテーブル鏡みたいに磨かれていた。ボクはお誕生日席にいる親父の横に立ってなきゃならなくて、それがまた面倒臭かった。始まる前に、笑うな、愛想を振りまくな、顔を引き締めろ、何を言われても動じるなって頬っぺたぺちぺち叩かれて。嫌だな。本妻の息子たちか誰か、代わってくれないかな。ボクが一番デキが良くて、器なんだって。何だそれ。別に実子継がせる必要ないでしょ。だって血縁よりもっと濃くて中身のある絆とか水菜とか飯綱(いづな)とかで繋がる世界でしょ。代わってくれないかな。親父が癌だかなんだかで死ぬまでにボクの心の準備はいつまで経ってもきっと整わない。そのうち若頭、若頭っていっても40代後半くらいの人たちが継ぐんでしょ。そしたらボクはこんな世界からはバイバイ。先代の実子、ただそれだけの価値で生きていくわけで。

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