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第21話
-漣-
気付くと溜息ばかりだった。悪夢がまだ張り付いている。昨日はどう帰ったのかも覚えていない。惨めな夢だった。これ以上ないくらい。
「イイオトコが溜息吐かない」
笛木に捕まる。ひとりになりたくて教室を出てきたのにまるで説教するみたいに俺の前に立った。
「で?進展あった?」
「…別に」
「あったんだ?」
都合の良い耳だ。羨ましくなる。俺もあの悪夢が本当に悪夢だと思い込みたいものだ。
「あったとしても教えることはないな」
「あ、そ!あーしはショータと緋野しぇんしぇの不埒なカンケーを終わらせられれば何でもいいケドね」
俺は思わず随分と軽々しく何の屈託もなくとんでもないことを暴露する笛木の目を見てしまった。
「あ、」
「知っているのか」
「あ~、あ~、あ~。言っちゃった…」
笛木は口を覆って呑気に白状した。
「どうするんだ。誰かに言うのか」
「まさか。無し無し!無しんこ無し無し無し。みっしー、密告する気?絶対やめて。ショータが変な目で見られる」
ふざけて能天気で呑気な軽率な顔は引き締まった。能登島の何なんだ?ファンクラブか?クラスメイト以上に能登島を気にしてはいないか?好意は好意でも恋愛感情とはまた別の、執着とまではいかなくても、こだわりを感じる。
「理想の弟?理想の息子?まぁなんでもいいや、大体そんな感じ。簡単でしょ」
訊いてもいなかったが笛木は自分から喋った。
「何が」
「だから、あーしがショータを気にしてる理由 。それで、みっしーは?どうしてショータを気にするのかな~?」
「期待に沿う答えは用意してない」
首を傾け、大きな目が別角度から俺を見定めようとする。笛木の欲しがっている答えは知っている。けど、そんな甘いものじゃない。そんな優しくて、ドラマティックなものじゃない。
「ふーん。ま、答えは正直なんでもいいや、この際。ショータが道踏み外さなきゃ」
「…そう、だな」
「ほら頑張って。そんなんじゃ地区大会落ちだよ。天辺 獲んなきゃ」
俺は付き合いきれず教室に戻った。能登島の背中は丸まって寝ているようだった。
「美潮きゅん、さっきラブレター預かったんだけど」
隣から二つ折りのメモ用紙を渡される。
「…ああ。悪い」
適当に開いて丸みのある字を追っていると視界の端で奴のいる方向が動き、思わず目を離してしまう。だが能登島は体勢を変えただけだった。また字を追うが頭には入ってこなかった。また体勢を変えたのかぼやけた奴の影が動く。落ち着かなくなる。悪夢がまた、悪夢として処理できないほど鮮明に蘇る。柔らかな唇と、熱い舌と濡れた口の中の感触ごと。優越感に満ちた緋野の目とか。俺を拒む声とか。笛木にもああいうことをして見せたのか。俺のみた彼女は意外にも強かで、妙な行為を見せられたところで動じそうにない。教師と生徒とまではいかないが、男子生徒と男性教師とではよくあることなのか。あるわけない。手紙の文章は何ひとつ入って来なかった。ただメモ用紙のデザインと丸い文字の感覚で読んだ気になる。また視界の奥でぼやけた奴が動いて、捕らえるように顔を上げてしまう。キラキラした目とぶつかった。能登島は顔を逸らす。緋野の前では子供みたいに笑い、妖しい顔で俺を見上げていた。スロウモーションになって、奴の口の中に入る光景を思い出して居た堪れなくなる。勃ちかけて考えるのをやめた。能登島のあの口元と舌はそれでも俺から離れちゃくれない。
「ちょっと、美潮きゅん?」
大神が身体を傾け、自分の口に手を添えた。
「礁ちゃんのこといやらしい目で見過ぎ!」
まるで俺の周りに結界でも張ってあって、それが破れたようにクラスの声が耳に入ってくる。女子たちがちらちら俺を見て、目が合うと逸らしていく。男子は大神みたいにへらへらしながらも引き攣った苦笑いを浮かべていた。
「教室中変なムードになってたよ。気を付けて~」
大神は耳元で囁いた。俺は酸素を求めていた。汗をかいている。最低だ。悪夢だったはずなのにまた掘り返したりなんかして。
「ほ~ら、美潮きゅんが噎せ返る色気バラ撒くから~!みんな、解散、かいさーん!」
大神はわざとらしく叫んで、クラスのほうへも呼びかける。余計注目を集めてばつが悪かった。俺が意識しているから尚更。
「礁ちゃん見るの禁止!」
「あ…?ああ…」
俺はどっと疲れて話もまともに聞いていられなかった。予鈴が鳴る。また目は能登島を捕まえて、俺の視界を大神の掌が上下した。能登島を見ないようにするのが一苦労で。教壇を向けば視界には入るけど。大神が問題を解くのに当てられてチョークの粉を払いながら戻ってくる。能登島との間に立って挑発するように首を含め、わざわざ屈んで俺を覗き込む。そしてふざけたその態度を先生に咎められ、間違いを指摘される。大神は戯けながら監視の目を光らせる。能登島を見るのは禁止。言われなくても見ないさ。前ならそうだった。でも今は。いや、前からきっと見ていた。自分で切ったらしい前髪も、ちょっと風邪気味な声も、頬にできた面皰 も、気付いてた。全部見てた。当てられた問題の間違った箇所も、下手な字も、軽やかなリフティングも、少し癖のあるテニスのサーブも、しなやかなスパイクも。全部見てた。ずっと見てた。能登島を能登島と認識した日から、見てた。考えると胸が痛くなる。能登島は緋野を選んだ。俺を拒んだ。俺を拒まない理由が逆に無い。でもそれほどまでに緋野がいいのか。顔か?性格?年上だから?何故喉に詰まるような思いをする。能登島のことなんぞ、何だっていいはずだ。頭が痛くなる。
昼休みになって笛木が俺のところに来た。
「昼飯一緒に食べよ」
装った外面で俺に笑いかける。薄ら寒い。俺は黙った。笛木は金色のテープを剥がして揚げて砂糖漬けになったパンの耳を食べ始める。
「どう?」
「何が」
答えもせずにへらへら笑って誤魔化される。どうせ能登島のことだ。分かっちゃいるが言うことはない。
「食べる?みっしーって砂糖とか嫌いそうだけど」
「いや…いい」
笛木は袋の口を俺に傾けた。砂糖だらけでパンの耳など砂糖を食べるための口実のようなものだった。
「ざ~っんねん」
認めたくはないが対面の視界を塞がれるだけ奴を見なくて済んだ。今日はクラスにいるらしい。大神と菓子パンを食べていたはずだ。
「ま、みっしーなりに色々考えて身、引いてるのかもね。押してダメなら引いてみるわ~。みっしーは引いてダメだし引くしかできないってやつ?怒らないでよ、事実なんだから」
煽るだけ煽って笛木の目は据わった。緋野の優越感に満ちた眼差しに似ていると思った。落ち着き払って、その中に何か言いたそうな。笛木の場合は逆かも知れない。無理に喋っているような。それは俺が彼女の抱えるギャップに気付いてしまったことのこじつけなのかも分からないが。
「笛木は、」
「何?」
「押したくないのに押すタイプなんじゃないのか。理由は見当もつかないが」
目元が少し動いた。大きく息を吐き、俺にはきっちり整えられた毛と旋毛が見えた。
「みっしーってやっぱ黙ってたほうがカッコいいわ。遠くから見てることにしましょ!」
踊るように席を立つと向きを直して踊るように俺の前から去っていく。俺は野菜ジュースを買いに玄関前の自販機に向かった。ただ自販機の前に立ち、金を入れボタンを押す手前になって野菜ジュースは能登島がよく飲んでいるのを思い出して躊躇いが生まれた。日常にまで入って来ている。これはきちんと話をつける必要があるのかも知れない。果たして俺に押すことなど許されるのか?そもそも押したのかも分からない。何故押す必要がある。俺は気が付くと自販機の前で項垂れていた。視界の端を影が横切り、我に帰る。
「詰まったか」
会いたくない教師が立っていた。段差3段分、見下ろされる。緋野だ。涼しい顔というよりも表情のない顔で俺を見下ろしている。まるで何事もなかったように。俺だけがあの悪夢を気にしているように。悪夢ということにしただけ、俺の負けだ。用はないとばかりに首を振った。
「そうか」
ただそれだけ言って去っていく。同性の俺からしても完璧な男のように思っていた。愛想も何もあったもんじゃないが。能登島はもっと明るく騒がしい人と居るものだと思っていた。大神や笛木みたいな、自分に似た人と。生徒に手を出すと知るまでは。手を出すどころか、能登島を脅すように俺に差し向けて。
「美潮きゅんさぁ、」
突然の声に肩を震わせた。俺の後方にあるコンクリートの柱から広がるように設けられた木製の腰掛に大神が座っていた。
「礁ちゃんと何かあったっしょ。礁ちゃんのことえっろい顔して見過ぎ。ガン見ハラスメントだよ」
「別に…」
「ボクだけ気付く分にはこんなダメ出しみたいなんしないって。そ~ゆ~の、女の子って敏感なんだよ。男子 も中 てられちゃってまぁ…一匹狼 の美潮きゅんはとにかく、礁ちゃんが変な目で見られるじゃん」
「し、知らない…」
ダメ出しと本人が言う割に大神は愉快げだった。
「ただでさえあの性格だから欲求不満のチェリーちゃんたちに触られたり抱き着かれたりチュウされたりしてんのに」
くしゃみを失敗した時のように大神は鼻を鳴らして笑い始めた。それより。
「そんなことされてるのか」
大神は両手の人差し指を俺に向ける。
「そうだよ。ううん、嘘」
肯定した直後に頭を振りながら否定する。危ういまでに情緒の安定していない感じがあった。
「あんな視線 で見てるから美潮きゅんきゅんきゅんがそうしたいのかと思っただけ」
「まさか…っ」
「だよね?良かった。あ~!良かった。美潮きゅんがもし礁ちゃんにやっばい欲望抱いてたらと思うと!そしたらボク、めちゃくちゃヤなやつじゃん?ただでさえさ、2人の仲引き裂いてんのに」
大神はへらへらして、俺を自販機に挟むように追い込むかと思うとその腕は俺の頭の横に伸びた。がこん、と音がした。
「美潮きゅんは礁ちゃんがあんま好きじゃないやつね」
ヨーグルト飲料だ。ここの自販機のメーカーのものは水っぽくて腹を痛くするとかで。能登島が好きじゃないもの。悪くない。大神はへらへら笑って、あくまでも友好的な態度を崩さずに去っていった。俺は淡いブルーと白のパックを拾う。教室に戻ると能登島は笛木とじゃれ合っていた。大神もそこにいる。席に着くと大神は俺を振り返った。「分かってるよな?」そう言っているような気がした。ベランダ側を向くように頬杖をついた。校庭では制服のままサッカーしている人々がいた。呼ばれて振り返ると知らない1年女子が立ち、クラスのやつらに絡まれている。これから少し来て欲しいと。能登島と大神が厄介でこの時ばかりは救われた。返事は決まっている。相手も分かっているだろう。名前も顔も声も知らない。好きなものも嫌いなものも知らない。どれくらいの時間に登校するのかも、筆跡も知らない。苦手科目も、得意科目も。好きなスポーツも。切った前髪も増えた面皰 もよく食べてる菓子パンも分からない、気付かない、そんな相手に、どんな答えが来るかなんて。タイミングの悪いところに緋野が通った。今度は帰りか。俺と一緒にいる1年女子を特に関心も示さないくせに見ていた。肩にはファイルを担いでいる。後ろを見たことはあるが名前は知らない同級生がついて行った。能登島だけじゃないのか。ただの進路相談だろう。もしくは成績のことだとか。能登島を何だと思っている。考え過ぎだ。勘繰り過ぎだ。教師なら生徒と部屋に2人きりになることもある。能登島のことだけじゃなかったのか。能登島のことは遊びだったのか。かといって能登島とのことが本気だったら。息が荒くなっていた。寒くなる。膝に力が入らない。階段を上がる前で壁に手をついた。1年女子に気を遣われる。怖い顔をしていたらしい。時間を割いて申し訳ないと。屋上前の踊り場で例の決まった告白をされる。決まった答えで解散した。教室棟に曲がるところでぶつかった。能登島だった。目を大きくして、惑っているのはすぐに分かった。賑やかな廊下でここだけ静かになった気がした。俺の袖は掴まれた。そのまま引っ張られ裏校舎に連れられる。
「なんなんだ」
「あ……テンパっちゃって、えっと…ごめん」
適当に謝って能登島は行ってしまおうとする。
「待て」
「…」
唇を尖らせて能登島はまだ困った顔をして止まった。
「俺も行く。緋野のところだろ」
目を見た瞬間に分かってしまった。それが苦しい。こいつは緋野を選んで、俺は拒まれた。根に持っているわけじゃなく、ただひとつの事実として。拒否される前に能登島の腕を掴んだ。強張っている。素速かった動きが重くなっている。
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