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第29話
-星-
理科準備室に子犬がやって来る。大神と話すといくらか気持ちが凪いだ。燈にも見せられないナイーブさと燈には理解されない冷笑的なところが俺なりに分析した俺に通じるのがある。相談に乗るつもりでいたがどこを切り抜いても大神による俺のメンタルクリニックだった。大神を過呼吸にまでさせてしまったが、俺は落ち着いて子犬に対応できた。ただひとつ、美潮の頬の引っ掻き傷のことだけが気に掛かる。新寺から言われなければ気付かなかった。流石に現場に居合わせなかったため俺の知り得ることはそこまでだった。また大神が冷やかすような苦情の電話が来たのかどうかも分からない。
視界がふと暗くなって唇が柔らかくなる。子犬が眼前に迫って首を傾げた。
「せんせ?」
中途半端に開いたシャツを閉じていく。子犬は少し動揺した。今日は抱く気分になれなかった。膝に乗る子犬を胸元に倒しながら抱き締める。大神の惚れたという女子は聞く限り子犬によく似ていた。
「今日はこうしていたい。いいか」
「うん…せんせ、好き」
子犬は最近やたらと口付けをねだったり、好きだと告げてみたりする。俺がまだ借金の返済をしていると知れたのか。取立てが来なければ分かる。家庭の事情と子犬の経済状況をみれば到底すぐには返せない額なのだから。
「せんせ…好き。オレ、せんせのコト、」
離せなくなりそうだ。頬に触れる。柔らかかった。この子犬が後ろめたい思いをする必要はない。黙っていると子犬はオレの胸元に頭を寄せた。髪を撫でる手が止まらなかった。俺の鼓動を聞かせる。こんな子供にどうして夢中になっている。
「手、繋ぎたい」
俺のシャツの上に置かれた手を握った。温かい。そのまま取って俺の頬に当てた。少し汗ばんでいる。
「このまま寝るか?家まで届ける」
適当に持ち込んだタオルを掛けた。子犬は温かい。大きな赤ん坊みたいだった。タオルの上から背中を叩く。軽くて温かい。呼吸が同じになる。俺の上で揺れ動く。涙が出そうになる。
「せんせ…」
「おやすみ」
そう長くない睫毛が閉じていく。涙が落ちるのを見られたくなかった。手放せそうだ。だがおそらく手放せない。この子犬とまだ一緒に居たい。離れたくない。
「おうちの時の、せんせみたい…」
「家の俺は優しいか」
胸元のシャツが弱く擦れた。燈はこの子犬のことを深く愛していると思う。この子犬も燈のことが好きだと言っていた。出来ることなら家に連れ去りたい。出来ることなら3人で暮らしたい。その場合、俺たちはどういう関係になるのだろう。壁の時計の針が鈍く動いた。別れの時間が近付いていく。また明日会える時間が近付いてもいるというのに、憂鬱だった。タオルごと子犬を抱き上げる。また軽くなっている気がする。子犬の目が薄く開いた。俺の赤ん坊だ。俺の子だ。硬い髪に頬擦りする。
「そのまま寝ていてくれ」
助手席に乗せたかったが後部座席に寝かせた。膝掛けをタオルに重ねる。
「せんせ…」
俺の手を追って握る仕草にまた言いようのない激しい感動に襲われた。
「せんせが、好き…」
応えられず車のドアを閉める。子犬の自宅へ帰る前にスーパーに寄った。弁当を買う。明日の朝飯にするのでもいい。昼飯にするのでも。子犬の住むアパートは相変わらず荒れ果てていた。ここに置いていきたくない。玄関前で暫く抱擁をやめられなかった。子犬はまた口付けをねだって額と頬にもキスした。弁当と惣菜を持たせてまだ離れられないでいる。また明日会えることも忘れて。
「きちんと食べて、身体を冷やさないうちに寝るんだ。約束できるか」
小指を出すと子犬は頷いて簡単に折れそうな小指を絡ませた。
「良い子だ」
離れられない。傷んだ前髪を掻き上げた。手からこぼれていく。もう一度抱擁してから離れる。連れて帰りたい。
「おやすみ、せんせ。また明日。おべんと、ありがと」
ここがこの子犬の家だ。俺も燈が待ってる。
「おやすみ」
また明日会えることも忘れて、俺はハンドルを抱えて寝息の聞こえない車内に気が狂いそうになった。
-漣-
笛木か大神と離れなくなった能登島の背をすれ違いざまに軽く叩いた。その後のことは見えなかったが笛木が奴を気に掛ける声が聞こえて愉快になった。その次の休み時間に能登島は俺のところに来た。笛木も大神もいない。嫌なんだろうな、俺のこと。窓辺から手招きすると緊張した顔で一歩一歩ゆっくり近付いてくる。
「顔、引っ掻いて…ゴメン」
もう瘡蓋は剥がれている。母親も誤魔化した。猫を飼う話にまでなっている。名前は、ショウタがいい。キジトラで。どうせ血統書付きの猫なんだろう。
「…許さないって言ったら」
キラキラした目が狼狽える。日に焼けた拳が震えている。新しく絆創膏が巻かれていた。小さく血が滲んでいる。
「その傷は」
「これ?」
能登島はその手を控えめに見せた。人差し指の第一関節に近い第二関節との間の部分の側面。俺の指まで痛む気がしてきた。自分の同じ場所を撫でた。
「缶で切っちゃって」
乱暴する男にするには無防備過ぎる笑顔を見せられる。俺が睨むように見ると素直な顔は途端に緊張感を取り戻す。窓辺に座ったまま目の前に立っている能登島の背に腕を回した。薄くて硬い胸に頭を押し付ける。そうすると安心した。
「あまり、怪我、するな」
垂れた手を引っ張って絆創膏のパッド部分に染みた血を眺めた。あまり気分の良いものじゃない。ただこいつの身体を巡っていたものだと思うと特別な感がした。触ると指が固く動いた。
「痛いか」
「ちょっとだけ」
触っている手を放した。両腕で抱き寄せる。能登島の匂いがした。
「美潮…」
戸惑ってるのは声で分かる。でも今はキスもレイプも会話もできない。ただこうしていたかった。なのに息が詰まる。
「好きだ」
「やだ」
拗ねたように能登島は言った。それでいい。呪いでエゴで押し付けだ。俺にとってのガス抜きに過ぎない。意味なんかない。ただ能登島が嫌がるからつい繰り返してしまうだけ。
「美潮、怖い」
「怖くない」
予鈴が鳴るまでそうしてた。一緒には戻れない。それが少し惜しい。廊下に出るとまたばったり新寺と会う。顔を一瞬で赤くして半歩後退る。今日は聞かれて疚しいことはしてないはずだ。
「あ、ああ、美潮くん…」
俺は適当に会釈した。指がぶつかり合ったことを気にしているらしかった。分かっている。俺は腫物だ。でもそんなことで親に言い付けたりしない。腫物どころじゃない。俺をニトログリセリンか何かと勘違いしている。
「今…出て行ったの、礁太だよね…」
咄嗟に睨み付けてしまっていた。俺は能登島と無理矢理にでも一緒に居たい。探るような真似をするな。苛立った。俺は答えなかった。本鈴が鳴る前に教室に戻ろうとした。
「ま、待ってくれ…!」
廊下の天井から下げられている時計が軋んだ。長針が動くたびに脆げな音を出す。
「この前のこと、」
指がぶつかり合って慌てふためていたことはよく覚えている。そこまで怯えることかと印象に強くて。俺はガラス細工か。しかも口煩いバックがいる。まるきり気にしていない。親に言い付けたりなどするわけがない。その場合は保健室使用禁止にでもなるのか。
「この前というと何かありましたか」
気にしなくていいことだ。そんな過敏になることじゃない。
「あ、ああ、いや。何でもない。すまない、人違いだった。授業始まりそうなのに、ごめんなッ」
俺は教室に戻った。能登島はきょろきょろしていた。大神は後ろに首を倒して俺を見上げ、へらへら笑っている。
「傷、消えそ?」
包帯が見える袖が自分の頬を指で叩いた。何も答えず校庭を眺める。窓にやつが映っていた。
「イイ男には傷のひとつふたつあるもんだわな~」
絆創膏の赤い染みを思うと別に「イイ男」である必要はないように思えた。
-雨-
ショータを探すつもりが予鈴が鳴って戻ろうとした時に新寺しぇんしぇが涙目になりながら歩いてたところに鉢合わせた。美潮と一緒に居たらしくて小さくなってる背中が見えた。なんとなくだけど新寺が好きと言ってたの、美潮?まさか。
「新寺しぇ~んしぇ」
オレに気付かなかったみたいで新寺しぇんしぇは振り返った。目から涙が落ちてる。イケメンだと情けなくてもそれなりに見える。それよりもテント張ってて、イケメンでもそれは流石に引いた。気付いてないの?自分のカラダなのに。感覚くらいあるでしょ。ああ、そっか。学校じゃ勃ってもどうしようもないもんな。女体 には分からないや。
「あ、ああ…笛木さん」
適当に涙を拭いて平静を装う。大人って大変だよね。売り文句みたいにこの人が言う「何かあったら相談して」を真に受けてほんとに相談してる子たち多いみたいだし、一可能 恋人 狙ってる子もいるみたいだけど、この人がもう相談するに足る相手じゃない。好きな人追記 多分の後姿見つめて泣いてるとか情緒不安定過ぎるし怖すぎ。生徒に邪 な感情抱いてるのヤバくない?男子ならいいわけ?こいつも緋野も。やべぇじゃんオレ。いやいや、女体 で良かったって思うべき?やっぱりオレ、外側 から見たら女なんだ。結局腕力は女だからさ、ガチで男として扱われたら力じゃ勝てないし、力で役に立てることなんかないんだけど。浮気お父さん、寝取りお母さん、児ポ異母兄さん。新寺しぇんしぇももっと底辺 にしてあげよっか。
「しぇんしぇ~さぁ」
オレは近付いた。オレこう見えても美少女なんだよな、鏡で見る自分は3割増しによく見えるらしいけど。ショータもカワイイって言ってくれたし、この顔気に入ってんだ。ま、あの子はあんまりカワイイとかブスとかの区別ちゃんとはついてないみたいだけど。高校までだよ、そうしたら色々折り合いつけてさ。カッコイイって言ってくれる日は来んのかね。
「しぇんしぇ~、ちょっと大事な話があるんだケドさー」
すぐ傍の空いた部屋に新寺しぇんしぇを連れ込む。あーあ、問題だよ。いっくらしぇんしぇが美潮追記 多分に横恋慕してて、オレがいっくら女否定しても、世間からみたら立派な男女だよ。ただ教師と生徒ってこの一部がさ、洗練された関係を約束してたはずなのに、途端に男女表記された途端にいかがわしい関係に見えるワケ。
「笛木さん…?」
溜まり場になってるのか知らないけどパイプ椅子とか散らばってたから奥の方にあるやつに座らせる。まだ潤んでる目がオレを見上げた。その落ち着かないカンジとか何気ない仕草がショータに似ててオレのほうも落ち着かなくなる。ショータは、でも、こんなふうにはならないと思う。今だけだよ。今のショータに似てるだけ。ショータはもっとカッコよくなる。オレとの身長の差も開いて、オレが気分的にも兄ちゃんなんかできなくなって、声は低くなって、髭も濃くなってさ。オレは本当にショータの中で女になっちゃうんだな。背だってもう止まってる。金貯めて男体 にはなれるかも知れないけどショータの中ではオレは女で、その頃にはもう現代医療 でもどうにもなれない色々の差が開いてるんだろうな。
「っつーかしぇんしぇ、勃ってない?ちょっとヤ~ダァ~」
開いた膝の間に入って勃ってるちんぽに足上げた。オレは何度も脚閉じろって教わった。理由は簡単。女体 だからみっともないんだって。新寺しぇんしぇは顔真っ赤にして目を真ん丸にして濡れた白目が光ってた。足の裏では新寺しぇんしぇのちんぽの硬い感触があった。オレの浮気親父は仮性包茎だった。じゃあオレも陰茎所有 だったら仮性包茎?やだな、緋野の想像しちゃった。やめてくれ。
「あっ、笛木さ…、何して…っ」
「現役女子高生見て勃っちゃった?それとも美潮のこと見て?どっちにしろ変態」
失恋ちんぽを足で踏む。将来的にはこれが欲しいのにさ、全然知らない。保健体育じゃ外面的だし、まず同性 のモノなんてみたくないっしょ。
「あっあっ、あっ…だ、大事な話、って、!」
「しぇんしぇが生徒に失恋してガチしょんぼり沈殿丸の意気消沈 萎えぽよピーナッツだかっさー、あーしが相談のったげようと思ったワケ」
靴下履いてるから足の指上手く使えなかった。とりあえず摩っておけばいいんじゃないの?踏まれただけで勃つとか不便じゃね?でもオレはそっち側なんだよ。ああ、ショータみたいに素直なんだな。
「あーしに相談しなよ、何が気軽に相談してくれなのさ。自分はめちゃんこヤバい案件抱え込んでるクセに」
「あっあ…足、下ろし…てっ!」
新寺しぇんしぇはオレの足と自分のちんぽばっかり見てた。開きっ放しの口から涎が落ちてく。イケメンのマヌケ面は見るに耐えない。やっぱオレ、美少女で十分なんじゃない?
「生徒が好意 なんです、よりヤバい相談多分来ないよ、新寺しぇんしぇのとこにはさ!」
「あっああ、足、離して…、!」
「スッキリしちゃったらいいよ、しぇんしぇ。あーしが見ててあげ丸水産」
こくこく頷く新寺しぇんしぇが何すんのかと思って足を離した。すぐにファスナー降ろして本物が出てくる。現代医療でこんなの作れんのかねって複雑な構造してた。重いだろうな。慣れるかな。そうすると誰かしらに本当に相談しなきゃならないんだろうな。あーあ、オレには友達いっぱいいるのに孤独だよ。
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