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第32話

-星-  俺より背の高くなった新寺とその隣には笛木。まさかこの2人を目の前に並ばせる日が来るとは思わなかった。新寺は俺から(あかり)を奪っていく。燈兄ちゃん燈先輩燈さん。関係が変わっても新寺の燈への執着は変わらない。俺にしつこく燈のことを訊く。隣は俺の実父の娘。だが俺の家族(いもうと)ではない。本当に俺の実父の実子(むすめ)なのかも疑わしい。 「何故呼ばれたのか分かるな」 「いーえ、全っ然分かりましぇん。特に、呼び出したのが緋野しぇんしぇなら」  笛木はふざけた態度を崩さないが首を傾げて俺を見る目は笑っていない。何も返せなかった。彼女は俺としょうたの関係を知っている。 「こら、ダメだろ!ふざけたら…」  新寺は笛木を叱るが、彼女は相変わらずふざけている。俺が長く息を吐くと新寺は身を竦めた。 「世間に知れたら問題になる。分かっているよな」 「新寺しぇんしぇがね」 「噂なんぞはすぐに広まる。背鰭尾鰭がついて勝手に泳ぐ。世間的に白い目で見られるのは教師のほうでも、校内で好奇の目に晒され続けるのはお前だ」  笛木は窺うように俺を見上げた。 「それは当事者意識ですかぁ?」 「答えは要らないな?」  否定はしたくなかった。しょうたとの関係を自ら明かすつもりはないが、こればかりは俺の口から誤魔化せない。強迫的な考えに襲われる。どうせまた迷う。隣の新寺が顔を上げた。 「俺は学校側に何か報告するつもりだとか、それで脅そうという魂胆でこんな話をしてるんじゃない。目立つことをするな。お前等の関係なんてどうでもいい」 「あ、誤解しないでくださいよ、緋野しぇんしぇ。あーしと新寺しぇんしぇはそういうカンケーじゃないんで。お互いフツーに好き()いるし。あれは、その場のノり?」 「教師と生徒、男女であの時間にあの部屋に2人きり。俺はそれを信じるが、他の奴等にはいくら説明しても言い訳にしか聞こえない」  笛木は含みのある笑みを浮かべた。嫌な予感がする。わずかにでも引いている同じ血がそうさせるのか。 「教師と生徒でも男同士だといいですね。きっとここまで言われなかったでしょーね。あーあ、いいなぁ、あーしも男だったらなぁ」  何故か新寺が頭を抱えた。笛木は仰々しく天井を見上げて肩を竦める。 「何が言いたい」 「何が言いたいのかは緋野しぇんしぇがよく分かってるでしょ。保健室も大して使わないし新寺しぇんしぇにも特に用ないからもうこういうコトないと思うケドさぁ、もっと根本の問題だと思いますよ、緋野しぇんしぇ。ね?新寺しぇんしぇ」  新寺は頭を抱えたまま大きく首を振った。部活のない生徒の下校を促す放送が流れ、俺は笛木を帰した。彼女はまだ深刻そうに頭を抱える新寺の背中を叩いて帰って行った。 「何か悩みでもあるのか」  他にかける言葉がなかった。新寺は恐る恐る顔を上げる。すぐに泣いて、よく笑って、よく喋る。俺から燈を奪っていく。幼い頃の思い出。新寺には友人が沢山いた。それでも燈がいいと言う。新寺が来れば、燈の周りに人集りが出来る。だから俺は離れる。燈は俺を追うが、そこには新寺とその仲間たちが付いてくる。俺は帰って庭に来る野良猫やムシと遊ぶ。父親が来てキャッチボールをしてくれた。燈にはナイショでコンビニで菓子を買って、近くの川で並んで食べた。数えるほどしかない思い出。 「…何も…ありません。悩みなんて…」 「何故あんなことをした。笛木に特殊な感情でも抱いているのか」  まるで笛木どうこうよりも彼女の中に少なからず流れている燈と同じ血を追っているように思えて不愉快だ。だが新寺が知る(はず)のないことだ。誰も知らない。おそらくは本人だって。 「…いいえ……ただ、その…笛木さんとは、少し話をしていただけで…」  話の延長で下半身を露出するのか。しかし興味はない。俺が咎めることでもなく、首を突っ込む筋合いもない。ただ見てしまい互いにそのことを認識してしまっている以上、形だけであっても生徒を指導する義務がある。いわば建前(ポーズ)だ。中身はない。 「そうか。分かった。気を付けろ」  俺はもう切り上げる気でいた。しかし新寺は強く俺を見つめる。まだ話があるようだった。 「学校側に報告するつもりがないのは本当だ。その点は安心して欲しい」 「緋野先生…あの……自分は、その…性欲が強いみたいで、」  ソファーから立ち上がりかけた俺はまた腰を下ろす。センシティブな内容にどういう顔をしていいのか分からず新寺から目を逸らした。男同士ならよくある話なのかも知れない。人付き合いの苦手な俺でも性風俗やキャバクラに誘われたことならそれなりにある。 「……学校で、するのが、止められないんです、…その、自分の手で…するのが」  途中で話が途切れないよう俺はこの聞いているほうも羞恥に駆られてしまう告白が終わるのを待っていた。新寺は顔を真っ赤にして黙る。 「肉体的な問題か、精神的な問題か、自分の中で思い当たるものはあるのか」  ゆっくりと新寺は頷いた。 「すぐにでも然るべき機関に相談することを勧める。俺は的確なアドバイスをすることは出来ない」 「……緋野先生にも…少しだけ関係があって…」 「俺に…?」  またゆっくりと新寺は真っ赤な顔を伏せながら頷いた。俺に何の関係がある。現場に居合わせたからか。 「金曜の夜…お時間、いいですか」  金曜の夜。しょうたを燈に預けて、それから。深刻な相談なのだろうか。正直面倒ではあった。他の教員ならとにかく、新寺だ。幼い頃の苦い思い出は時を経てもそのままだった。ただ俺も、相手は生徒にも関わらず大神の独りの時間に割り込んでいる。無言でも許される。時折話す大神の斜に構えたようで素直な意見は解放された気になる。そういう時間が新寺にも必要なのか。よく話し、よく笑い、誰からも愛されていた新寺が。燈も年下の新寺のことをよく可愛がっていた。 「ああ」  項垂れている新寺を置いて俺は進路相談室を出た。 -夕-  今日は緋野てんてーは来ないみたいだったから中庭から引き上げて教室に戻った。ベランダには美潮がいた。机にわざと(つまず)いて物音を立てると面白いくらいに震えてびっくりしていた。校庭にはサッカー部がいる。礁太の声が聞こえた。美潮はボクを見て安心したようにまた校庭を見る。ボクも隣に行った。美潮の横顔は夕陽に染まって、もう隣にいるボクのことなんて構いもせずその目は真っ直ぐ礁太を見ていた。見惚れちゃうね、校庭に礁太がいなかったら。女の子だったら惚れてるよ、礁太に出会ってなかったら。錆びた手摺りの下を見る。アスファルトだった。叩き付けられたらきっと痛い。礁太がここに飛び乗ろうとした時に一回だけ、ぶったことがある。よく覚えてないけど怒鳴ってた。だって周りの反応は、ボクが怒鳴ったみたいな感じになってて。礁太は素直に謝って、ボクも謝った。緋野てんてーと謎の無言コミュニケーションで勝手にボクが分析したことだけど、礁太が転落しちゃうのが怖かったんじゃない。礁太が転落することを望んでたボクが怖かった。前なら苦しくなったのに少し落ち着いて考えられるのは、やっぱり緋野てんてーとのあの奇妙な帰宅部の部活動のおかげかな。   校庭の礁太はボクに気付いて手を振った。だから振り返す。可哀想だね、美潮。好きな子にも素直になれないなんて。美潮は校庭に背を向けてもう帰るつもりらしかった。 「美潮きゅんは礁ちゃんが大好きなんだねぇ」 「…、」  美潮はボクを睨むこともしなかった。ボクの足元をちらっと見るだけ。礁太が最近やたらと1人でどこかに行く。その時美潮も必ず居ないんだよね。笛木ちゃんは礁太に甘いから、ボクと違ってすぐ礁太を手放す。ボクも礁太のことを困らせるつもりないから強く出られない。だってボクが美潮から遠ざけてること、礁太は知ってるもんね。ボクにバレたくないんだもんね。後ろめたいね、礁太。緋野てんてーとの約束は破るけど。もしかして、ボク、今度は美潮じゃなくて礁太が階段から落とされることを期待してたりして。ボクの礁太、ボクの…礁太、ボクの礁太、礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太。ボクに捕まらないでね。美潮、礁太のことボクみたいな極悪人から守ってね。でも不快だ。笑いそうになってヘラヘラしておく。美潮は帰って行った。ボクよりマトモだよね、お坊ちゃんの美潮きゅんきゅんきゅんは?ちゃんと礁太のあの純粋な姿で満足してるよね?礁太の可愛い顔で満足してるよね?礁太の甘えたきゃんきゃんした声で満足できるよね?ボクの迎えもそろそろ来る。スマホが振動する。帰りたくない。何かあるわけじゃないけど。手摺りに背中を預けて暗くなっていく空と、薄いオレンジと白に輝いてる雲を他の雲の間から少しの間見てた。死んじゃおうかな。ボクがいつか礁太が死んで悲しむこともなく欲情しちゃう前に。このまま腰を上げちゃえば、少し加減を間違っただけでアスファルトの上にびちゃ…だよ。でも確実に逝くには少し高さが足らない。ボクを取り巻く家庭の事情が、自分で指輪落としたり身内(カゾク)家名(イエ)守った名誉の損傷(きず)でもない限り、片輪に厳しいことは知ってる。無償の愛なんてそんなものはない。役目があって、それを背負って果たして、やっと身内(カゾク)になれる。ボクのいる場所はそこだから。この手摺りに飛び乗るハードルは低い。でも死ぬ気なんてないよ。さすがにね。理由がない。思想が、本能を上回らない。校庭ではまだ美潮がグラウンド見てた。突っ立って。スタイルいいよね。体育館前でストレッチしてるバレー部の女の子たちも色めきだってる。恋する背中ってやつ?甘酸っぱいね、青春だよ。血生臭さなんてひとつもない。羨ましいよ、美潮。ただ単純に礁太を求められるお前が。 「(サト)ちゃぁん、今帰り?」  生徒玄関前の階段から笛木ちゃんが駆け下りてきた。ボクの見てたものを笛木ちゃんも探す。 「みっしー見てたの?」 「ちっがうちっがう。礁ちゃんのこと見てた。ほら、あそこ」  笛木ちゃんも礁太を探した。笛木ちゃんも礁太が大好きだから。軽そうに見えて結構義理堅くて友情に篤い笛木ちゃんにはボクの腹の中、見られたくないな。ボクが礁太にフツーの感情持ってないだなんて。 「あ、いた」 「笛木ちゃんは今帰り?」 「そ!緋野しぇんしぇに呼び出されちゃってさ。授業遅刻したっしょ?それで」  笛木ちゃんは礁太を眺めていた。その時だけバカっぽい感じがなくなる。話してる感じからして、成績は悪いけど多分本当のバカじゃない。わざとやってるのか、作為的にやってるのかは分からないけど。 「緋野てんてーって怒んの?」 「(おこ)プンとかはなかったケド。どーでも良さそうだった」  それから笛木ちゃんは今日の礁太を見納めて正門のほうに歩いて行った。まだ美潮はぼけーっとグラウンドを見てるけどボクも笛木ちゃんと正門に向かった。 「新寺しぇんしぇと話したこと、ある?あ、あるか」  笛木ちゃんはちょっと迷ってた。新寺てんてーは顔がいいからモテる。性格は、ちょっと頼りなさそう。腕怪我した時はさすが保健の先生って思ったけど。その話かな。笛木ちゃんが好きなのって毛深いクマさん系って言ってたはず。気が変わったのかな。 「でもそんなにはないよ。だからほとんどよく知らない」 「そっか。特にイミはなっしんぐ。たまたまさっき会ったから…なんとなく」 「あ~、やたらと緋野てんてーのこと訊いてきた。対抗意識燃やしてんのかな?どっちがモテるのかって」 「意外と~?」  緋野てんてーは優しいかとか、授業はどうかとか女子に人気があるのかとか。通じる話題がそれしか無いにせよ、緋野てんてーはアイドルか?って感じで。笛木ちゃんは話を振ってきたくせにどうでも良さそうだった。 「死活問題だよ、モテるかどうかは。高校生活に於いて」  そうだよな、美潮。一人勝ちしてるくせに礁太のことばっかり見ちゃって。いきなりちょっと雰囲気が変わった。何かあったんだろうね、それは分かる。前よりもボクとか笛木ちゃんにベタベタな礁太とか、前にも増してアンニュイな美潮とか。 「で、暁ちゃんは?」 「ボクはぜ~んぜん。声掛けられた手紙貰ったと思ったら大体美潮きゅん目当てですわ」  不思議なことだけど、礁太以外にはあの不安はない。可愛いと思った女の子もいるけど、階段から落ちて頭が割れたらいいとか、自転車で事故起こして膝が反対方向向いたらいいとか、そんなことは思わないし、可愛いと思うのもほんの一瞬で、すぐ忘れる。可愛いと思ったことだけ覚えていて、顔も思い出せない。薄情かな。薄情を通り越してるよ。 「2-C男子の宿命だね」  どこか遠くで救急車の音がする。酸素マスク付けられて搬送される礁太をその音の中に馳せた。身震いする。死んじゃおうかな。また思っちゃう。「信号赤だよ」って笛木ちゃんはボクの腕を止めた。2トントラックが目の前を通る。アスファルトが小さく揺れた。轢かれたら痛そうなのに。

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