34 / 69

第34話

-漣-  能登島を見るとつらくなる。何故今まで話せたんだ。どうしてあんな真似が出来たんだ。窓に映る透けた姿しかもう見られなかった。話したい。声を聞きたい。能登島に対する要望ばかりで混乱し始めた。教室に居られなくなる。苦しい。話したい。顔見たい。能登島に話し掛けるか。また怖がらせるかも知れない。きっと暴走する。笛木でも大神でもない奴等と居る時にあいつを捕まえた。肉感の少ない細い腕。肌に馴染んで揉みたくなる。 「話が…ある」  周りはこいつを冷やかした。俺に怒られるとか、そんなような話を。 「や、やだ…」  呟きとともに拒まれる。他の奴等に囃し立てられやっと能登島は俺に突き出された。ついでに手加減するように揶揄される。人気(ひとけ)のない場所へ連れて行けば当然こいつは警戒した。 「酷いことはもうしない」  転落事故があってから能登島が俺に見せるのは困惑の表情ばかりだ。違う、もっと、前の関係に戻りたい。本当か?欲が出る。 「好きだ」  結局この呪いの言葉だったものが嫌でも腑に落ちる。内臓に効いていくようだ。凝り固まった違和感が消えていくのもやはりこの呪いの言葉だった。 「能登島が好きで、苦しい」 「やめろよ!美潮、変だっ!怖い!」  逃げようとしてもまだ腕を掴んでいた。 「好きだ。能登島、どうしていいのか分からない。お前のことで頭がいっぱいなんだ」 「やだ、好きってやだ!言わないでっ!言うなよ!」  暴れてもまだ腕を放せなかった。引き寄せる。抵抗されてもそれが普通の反応だった。でもこいつが俺によって取り乱している。それだけが少し愉快だった。 「好き」 「やめろよ!怖い……困る…」  俺を押す身体を封じ込めるとこいつは強張った。 「また、階段から落ちゃうぞ…!」 「お前が落ちないならいい」 「放せよ、美潮…困るんだって、嫌だ!」  後頭部を押して上を向かせた。輝いた綺麗な目をずっと見ていたくなる。 「能登島、多分ずっと好きだった。ずっと苦しい…」 「やだやだやだ、好きって言うな、やだ…!」  慎重な手付きで俺の腕を剥がそうとする。より強く抱き締める。こいつの匂いがした。俺の胸元に減り込むほど強くしてしまう。 「好き」 「美潮、オレに…どうして欲しいの……」  どうして欲しい。まったく考えが及ばなかった。ただ能登島に触って言葉を交わして、息苦しさから逃れることしか考えていなかった。 「オレ…好きな人、いるから……付き合うとか、ムリ…」 「緋野か」  返事はなかった。抵抗にならないほど弱い力で俺を押し返す。 「緋野は教師だ。叶うわけない。お前が大きくなった時にその意味が分かって、きっと後悔する」  このままで放せない。おそらく届くこともない。こいつは後先考えられないことも知ってる。素直で純粋で、少し軽率なところが心配になるが、そこが好かれるところでもあって、俺も、多分そこに属する。 「カンケー、ないだろ…」 「ない」 「オレは緋野せんせが好きなの!美潮にはカンケーないっ!」 「そうだな。でも巻き込まれた。それでお前のことも放っておけない」  髪を撫でた手を叩かれる。おとなしくなって俺の胸に項垂れたこいつの額が当たる。 「オレ、ガキだから…せんせが遊びなのも分かってるよ…分かってるけど、好きなんだもん。美潮には、分かんないよ」 「諦めようとしたことがあるのか。俺と付き合おう。好きにならなくていい。ただ緋野を諦めろ」  付き合うとか付き合わないとかそんなこと頭にまったくなかった。付き合いたいのかも分からない。付き合うというものがどういうことなのかも想像が出来なかった。 「嫌だ!オレは緋野せんせがいいの!」 「駄目だ。俺と付き合え。緋野のことは諦めろ」 「やだ!」  能登島は俺の脚を蹴った。放せとばかりに暴れる。 「能登島。もしバレたら教師の緋野のほうが悪くなる。緋野が好きなのは傍に居てくれるからか。触れ合ってくれるからか」 「…でも、やだ」 「能登島。そんなに好きなら卒業してからだ。でも緋野が、手近だからお前に興味を持っていたらどうする?高校生だからこそ手を出す大人もいる。能登島、冷静になれ。生徒に言い寄る教師はまともじゃない。それだけで軽蔑に値する」  俺の顔を、咄嗟でも抵抗でもない意思を持った手が打った。 「緋野せんせはそんなんじゃない!」  能登島は泣きそうになって俺を殴った。この役目は悪くないと思う。あの能登島が俺だけに本気で怒ってる。みんなに明るい能登島が。嬉しい。すごく嬉しい。 「能登島…」 「嫌いっ!大嫌い!」  俺を押し倒して能登島は殴る。優位に立ってるのはこいつで俺はもうこいつに逆らえない。なのにこいつは俺に追い込まれた顔をする。勃つ。 -夕-  げっそりした緋野てんてーは黙ったままで、死臭が濃くなってる。鼻で感じるものじゃないけど。堅気(パンピー)じゃ住めないような高級マンションから母さんが落ちてきたことがあるんだけど、その直前の雰囲気と重なる。原型なんて留めてなくて、そこまでになるともうグロテスクとか気持ち悪いとかそんなん通り越してて、まだ母さんはボクの中で出掛けたきり帰って来ないって認識だった。本当は母さんじゃないんじゃないかって。服は母さんのだったけど。葬式も遺影も。緋野てんてーは別に母さんには似てないけど、今の雰囲気はちょっと懐かしいくらいだった。ボクは心霊現象とか死生観強く出過ぎて宗教めいてるしそんな体験もないから信じちゃいない。でも人間だけじゃなくて動物もあるいは持ってる無意識の解析みたいな第六感みたいなものは信じてる。それでいえば緋野てんてーは放っておいたら死ぬかもね。いや、放って置けば大体人は死ぬよ。いやいや、放って置かなくても人は死にますって。 「てんてー」  呼べばヤバそうな顔が持ち上がった。大金溶かしたとか?不倫がバレたとか?あれ、既婚者だっけこの人。 「ああ、大神か」  いやいやボクの相談するためにここに来たんじゃないの。今初めてボクがいることに気付いたみたい。それとも元々は緋野てんてーの休憩所(テリトリー)だった? 「大丈夫なんです?」 「ああ。すまない、何の話だったっけか」  緋野てんてーは弱そうに笑った。あれ、笑うっけこの人。 「蚕蛾の話です」  急遽適当に話題を引っ張り出せばネットに載ってそうな情報を緋野てんてーは語り出した。ちょっと変だよね、この人。養蚕の歴史とか喋り始めたし。社会科教師の免許も持ってるとか? 「蚕、好きなのか」 「蚕蛾のほうは。白くて大きくて、可愛いじゃないですか」  エサも食べずに飛べもしないで交尾してあとは死ぬだけ。しかも見た目は白くて野生だったらまず生きていけない。なんだか惹かれるものがある。 「昔は小学校でも蚕を育てたんだ。俺も蛾にしてみたかった。繭になったら提出しなければならなくて。どういうことになるのか授業でやっていたからな…」  緋野てんてーは遠い目をした。でもちょっと懐かしそうだった。珍しく柔らかい顔してるけどやっぱり死臭みたいなのは消えない。爺婆猫とか爺婆の犬とかを見てる時のそろそろちょっとヤバいかもなって感じの雰囲気。 「かといって提出しなくても蛾になれば野生に戻れない。卵を産んで、それが孵っても育てる環境にはなかったし、当時は蚕が人の手無しで生きられないとは知らなかったが」  それからまた項垂れた。電化製品のコンセント抜いちゃったみたいにもう喋らない。ボクが思ってるよりヤバそう。でも生徒(こども)の分際で教師の相談に乗ろうだなんて烏滸がましいでしょ。緋野てんてー、プライド高そうだから話さなそう。 「今は無くて良かったです。多分ボクなら、繭にもさせられなかった」  殺しちゃうんだろうな、きっと。自分から殺すんじゃなくて死なせようとする。緋野てんてーは隈の濃い顔で少しだけボクを見た。 「緋野てんてー大丈夫?」 「1匹だけ巣箱から抜け出して、踏まれたのがいる。生きてる時は触れなくても見ているだけで可愛かった。だが踏まれたものは、もう気持ち悪くて見てられなかった。俺には、生き物を飼う資格がないというか…飼う能のない人間なのだとはっきり分かった瞬間だったな」  壊れた機械みたい。もう蚕蛾の話は終わったのに。 「緋野てんてー。今相談が必要なのはてんてーのほうだと思います」 「……え?」  ぼけーっとしてた目がまた現実に戻ってくる。話聞いてないみたいだ。グラウンドからサッカー部顧問の声が聞こえて、そうすると礁太が中庭に顔を出すはずなのに今日は来なかった。礁太の顔を見れば生臭さを持ち始めたアイスマンも少しは気が休まるなんて思って。ボクは休まらないよ。まだ渡り廊下が崩落しないかとか、転んで膝ぱっくりイかないかとかまだ思ってる。消毒に痛がってさ。砂利落とすから傷開いて水で洗うんだよ。怖がるだろうな、礁太。最悪縫うんだよ、礁太。ボクの礁太、礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太。痛い思いしたら可哀想なのにボクはずっと期待してる。この期待をいつかボクは現実にしてしまうかも知れない。苦しくなる。息が出来なくて、悲しくて、萌えて、気持ち良くなっちゃう。でも傍には緋野てんてーがいる。だからちょっと苦しさは半減する。 「今日は礁ちゃん来ませんね」 「…そうだな」  緋野てんてーは膝で頬杖をついてボクから顔ごと逸らした。 「能登島は教室ではどうだ」  美潮の顔を誰かが殴った話を探ってるのかな。礁太だよ。そんな礁太を売るような真似出来ない。 「元気ですよ。風の子です。どちらっていうと太陽の子ですかね。おかげでクラスは常夏ですよ、避暑地もありますけど」  なんて、どう?ボク、気の利いたシャレ言えた?でも緋野てんてーに言う必要はなかったかな。 「そうか」  美潮が礁太のこと、ボコボコに殴ればいいのに。そんなこと思いたくないのに思った。仲良くして欲しいよ。美潮が礁太にそこまでのめり込むのはつまらないけど。でもボクが礁太をボコボコにすりなんて出来るわけない。殴れるわけないよ、あんな可愛い礁太(いきもの)をさ。でも青痣(あおタン)作って顔中腫れ上がってる礁太は可愛いよ。可哀想で。こんな妄想やめたい。礁太は今のままが一番素敵なのに、最低だよ。ボクは最低だ。どうして礁太がボコボコにされるんだ。そんなのこんな妄想して愉しんでるボクみたいな極悪人がボコボコにされるべきなんだよ。そのまま頭打って、もうこんなこと考えないように人格を矯正してよ。叩いて治して。昔のテレビみたいに。 「そろそろ帰ったほうがいい」 「緋野てんてーも今日はすぐ帰ったほうがいいと思います。お忙しいのは重々承知ですけど」  異常性癖持ちのド変態とノイローゼで話し合っても中身なんかない。ちゃぁんと傷を舐め合えてるうちが華だよ。下手に舐めたらあとは腐って臭い体液(しる)が出るだけ。 「…そうだな」  ボクは教室に戻ってまたベランダにいる美潮と並んだ。また礁太を見てる。赤くなってる頬っぺたがちょっとマヌケっぽかった。 「礁ちゃんに殴られたの?」  美潮はただ自分の赤らんだ頬っぺたに手を添えてゆっくりボクを見た。ボクに今気付いた芸はもう飽きた。 「言わないから大丈夫。さすがにね。だってそんなコトしたら礁ちゃんが秒で退学(おつ)っちゃうじゃん」  頭の良い美潮になら伝わるだなんて思うのは傲慢かな。礁太のこと、追い込むなって意味なんだけど。 「ボク、礁ちゃんのこと好きだな。大好き。親いないからさ、多分世界で一番好き」  夕焼けに染まる美潮の目が少しだけ伏せて、ゲジゲジみたいな睫毛が艶を差す。礁太だったら突き落としてたかも。美潮には興味ない。ただ顔が綺麗な男になんてボクの用はないんだし。 「…悪いとは思ってる」 「礁ちゃんは明日には笑ってくれるんだろうね。傷付いても自分から来てくれるよ。でも殴るなんてね、そこまで怒ったら分からないな」  美潮は黙って礁太を見つめる。 「礁ちゃんのこと傷付けないでね。美潮きゅんがいくら傷付いて自省しても知らないケド」  ボク萌えちゃうから。傷付いて泣いちゃう礁太に。ボコボコに殴られてボロ雑巾みたいな礁太に。でも退学は別だな。退学はダメだよ。 「俺だって…傷付けたくない」 「好きなんだもんね?」  否定してよ。つまらないな。でも美潮は将来性ありそう。まず堅気ってのは得点(ピー)高いよ。見た目も良いし。何より頭が良い。家柄も良い。絵に描いた王子様。ただ土壇場で手放しそう、将来性もなさそうで、低所得者の生まれで借金まみれ、発育不良の頭も品も育ちも良くないただただ可愛くて優しい野良犬のこと。高校生男子の恋愛なんてそんなものか。 「お前みたいに、よく笑って、よく喋れば、あいつは俺を好いてくれるのか」  自嘲的に笑って美潮は礁太から目を離した。ボクを見る目は弱ってる。 「好かれようとする恋愛に今後(イミ)なんてないね、知らないけど」  ボクはヘラヘラ笑って帰り支度を始めた。

ともだちにシェアしよう!