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第35話

-星-  燈になって欲しいと無理難題を突き付けられて、新寺はあの地獄みたいな夜俺に乗った。この手でしょうたには触れない。赤くなるまで手を洗った。何かぬるついたようなものがまだ付いている気がしてタワシで洗ってもまだぬるつきは取れなかった。風呂上りに燈に見つかって軟膏を塗ってもらった。新寺からの劣情に気付かせたくない。あの一夜が最後ではないらしく、次をほのめかして新寺とは別れた。社交辞令だろう。それでいい。1時間触られ続けてやっと勃った。それでも挿入となると果てもせずに中で折れて、自分の一部ではなくなったようで戸惑った。苦痛のような射精だったことだけ覚えている。好きでもない奴とスキンもなしに交わるのが気持ち悪いことだなんて思わなかった。燈の優しい目を見て吐いてしまう。何度目だ。あの夜が終わってすぐ。帰って来て。しょうたのことを考えて、それから今。燈の作ってくれた食事がまだ消化もされずに。燈の服に掛かっても、燈は優しいから俺を気遣う。働き過ぎだという。違う。  職場で顔を合わせた途端、吐気を催したが嘔吐(えづ)くだけで実際に吐きはしなかった。燈の作ってくれた弁当も喉を通らない。有事の際にと以前持たせてくれた板状のビターチョコが水と共にかろうじて胃に収まった。遠目に窓からしょうたを見つけて、会えないと思った。あの子は携帯電話を持っていないから連絡の(すべ)がない。持たせよう、あの子に。そのほうがいい。しょうたを見ていたら新寺に捕まってまた吐気がした。顔色が悪いらしい。原因ははっきりしている。平静を装うがそれでも外面だけは正直みたいだった。放課後の大神との奇妙な時間になってやっと気が休まった。それでも吐きまくった胃や喉は焼けたようで、大神に心配される。大神を心配してこの時間は始まったはずだというのにいつの間にか俺が大神を頼っている気がしてならない。彼に話してしまおうか。直感では彼になら話せそうな気がした。しかし生徒にこんな話をする教師がどこにいる。いくらどこか大人びて肝が据わっているとはいえまだ16、7の子供で、何より生徒だ。そして彼はある部分では()うに擦れていい場所が純粋に守られている。そんな大神にこんな話は出来ない。巻き込めない。燈の存在しなかった俺に似た背中を見送る。燈が存在しないで、俺だけ存在する。そんなことがあっていいはずないというのに。だから尚更大神のことは気に掛かった。  職員室に戻る気も起きず中庭にいたが、薄鈍(うすのろ)な自分を恨んだ。新寺が目の前にいる。顔を見た途端治まった吐気がまた蘇る。 「やっぱり顔色が優れませんね」  その原因から言われるともう笑うしかない。 「保健室で休んだほうがいいです。休みましょう…?」  胃から込み上げる饐えた息を抑えながら俺は首を振った。吐くことも新寺の提案もすべて否定したい。 「行きましょう。緋野先生と一緒にいたいです」  身体を触られると腹を殴られた心地がした。そうなるともう力が入らず引かれるまま。抵抗でもしようとすればおそらく吐く。自分の身体から抜け出したみたいだった。保健室は西日が眩しいくらいに射して暗くなるまでカーテンがしまっていた。嫌な予感ばかりがして俺は促されるまま椅子に座った。コーヒーが作られ、その間に逃げようとしても燈や笛木、美潮のことが気に掛かって立ち上がれずにいる。安いコーヒーの軽い味は嫌いではなかった。だのに新寺が作ると安値でかつ美味しい有名なメーカーの有名な商品でもやはり泥水みたいな感慨で、同じ味でも不味かった。コーヒーを俺の前に喫茶店の店員みたいにわざわざ横まで来て置いていった。顔を触られる。情けなかった泣き虫が今では恐ろしい怪物だ。陰った顔が近付いて口付けられる。もう吐気は実現して出せるもののない胃のものが溢れた。燈の持たせてくれたチョコレートも朝買った水もすべて吸収されている。口の中が痺れた。あの拷問みたいな夜でさえ俺は口付けを拒んだはずだ。しょうたにだけしかもうあげないつもりだった。両親、祖母、燈と昔の恋人、しょうた。俺は自分の中で決めた人としかキスが出来ない。唇なんてもっと狭まる。頭の中は半ばパニックになっていた。 -漣-  能登島の足が滑った。点は決まるが顎から着地する。そういうプレーがあるのは知っているが周りの雰囲気が少し違う。俺から見ても変だった。駆け出していた。周りのチームメイトを押し除ける。起き上がっているところだった。小さな顎を押さえた手が赤くなっている。 「へへ、しくっちゃった」  笑ってチームメイトたちを振り返った。そして真っ先に俺を見つけた。顎から血が滲んでいる。でも能登島はそれよりも重大なことみたいに顔を顰めた。 「部外者が入ってくんなよ」 「保健室に行こう」  腕を掴む。掌も擦り剥いていた。 「行くけど、美潮は、関係ない…」  部長みたいな人が出てきて俺を一度だけ見ると能登島を引っ張っていった。そして冷静になると周りの視線に気付いてむしろ身体中熱くなった。転んだだけだ。能登島はよく転んでいる。珍しいことじゃない。恥ずかしくなった。グラウンドを出て熱を下げる。あいつがいない校庭を見る用もなく帰ろうかと思った。それでも顎から血を垂らす姿が頭から離れず結局正門に向かっては動かなかった足をそのまま保健室に向けた。敵意に満ちた大きな目で見られたい。晴れた日の日差しみたいな声で唸られたい。たんぽぽが咲いた畦道に似た眉を顰められたい。保健室のドアを開ける。診察台に乗った能登島と怪我を診ている新寺、サッカー部の部長と、青白い顔の緋野。緋野と目が合った。眩しさに耐えるような頭痛を堪えるような、そんなつらさが細まった片目から窺えた。話の内容からして傷は深くないらしかった。サッカー部の部長は帰され、能登島は手当てされていく。新寺はその時に俺に気付いていつもの軋轢とかそういうのを避けたがっている感じのする卑屈な微笑を浮かべる。俺と対する時の母親と同じ部類の。 「美潮」  緋野に呼ばれて応えれば手招きされた。近くに座らされる。 「どこか悪いのか」  能登島がいる。そのことを警戒されているのかも知れない。能登島と居る、俺が怪我をする。母親が暴走するには条件が揃っている。緋野は具合が悪そうで声も嗄れていた。授業中もいつにも増して辛気臭く、機嫌が悪いとか体調が悪いとかクラスでも授業終わり気にする声はあった。 「いいえ」  緋野の目が診察台の上の能登島へ滑る。何か言いたそうで何も言わない。何か訊いてくるとしたら何故俺まで保健室に寄ったのか、か、能登島のことだ。 「用がないならすぐに下校することだ」 「美潮くん」  俺は新寺に呼ばれて緋野は壁を向いてしまう。 「礁太は大丈夫そうだから、うん、大丈夫だ。付き添いで来てくれたんだろ?」  俺は能登島の反応が知りたかった。嵐を吹く仔猫みたいだった。飼うならキジトラがいい。オスでもメスでも仔猫(こども)でも成猫(おとな)も問わない。保健所からもらってくる。それだけは決めた。いや、構い倒しそうだ。絶対にキジトラは避けるべきだ。今でも構いたくて仕方がない。それで俺が構われたい。 「本当に大丈夫なのか。痛くて泣いてただろう」 「な、泣いてないしッ!」  怒っていたはずが慌て始めて俺は満足した。まだ満足なんて出来るはずがない。 「ホントだよ、新寺せんせ!オレ、ホントに泣いてないもん」 「そうなのか~?偉いな、礁太」  新寺の手が能登島の髪を撫でたのが気に入らない。俺がいくらでも撫でる。毛根が力尽きるまで撫でてもいい。触るな、と叫びそうになったが呪いのDVDに出てくる井戸女が出す掠れ切った声で緋野が新寺を呼んだ。数珠らしき物が嵌められた手がやっと能登島の髪から離れる。ただ嬉しそうだったやつの表情が凍り付いた。俺と居るのを緋野が見てるからか?少しつまらなく感じた。 「手も怪我してただろう。膝は大丈夫なのか」 「あっ、そだ。新寺せんせ、こっちも。でもあのぽんぽんするやつ、する…?」 「するぞ。ちょっと滲みるけど我慢だな」  ころころ表情が変わっていく。能登島は新寺に掌を見せた。俺が思っていたよりも傷は軽そうだが規模は大きかった。俺がレイプしていた時に腕に当たっていた柔らかく膨らんだ部分に血が滲んでいる。消毒液の染み込んだ綿がそれを拭いていった。目を閉じて緊張している。痛いのは苦手なんだろう。さぞ痛かっただろうな、俺にレイプされたのは。怖いなら俺を噛んで欲しい。大判の絆創膏が貼られ、新寺は部活に戻りたがる能登島を帰す。俺は呼び止められて何を言われるのかと身構えた。接触禁止令のことかも知れない。保健医は公平に見てくれるなんていうのは甘い考えなんだろう。緋野の機嫌も窺った。体調の酷く悪そうな面構えで俺というよりは新寺を射殺すように観察していた。 「美潮くんも…怪我には気を付けて」 「…は?」 「美潮、用が済んだならすぐに下校しろ」  大きな溜息を吐いて緋野が言った。俺は返事もせずに先に行った能登島を追う。呼んで、駆け出して我慢も出来ずに捕まえた。顎に貼られた絆創膏が未就学児を思わせる。痛みをふと想像すると地面に叩き付けられたばかりの細くて硬い身体を抱き寄せていた。 「ちょッ、やだ!美潮、!」 「痛かったか」 「放せよ、バカっ」 「気を付けろ、ばか」  擦り剥いた掌を嫌がられながらも確認した。大きな絆創膏が貼られてこいつの柔らかさとは違う質感を痛まない程度に揉んだ。痩せていて硬くても柔らかいところは柔らかい。唇とか。 「美潮、放せって!オレもう部活行くんだってぇ…」  保健室のドアが開いて咄嗟に壁の突き出た部分と会議室の扉の影に能登島ごと隠れた。やつの口を押さえたせいで指に唇が当たる。驚いたのか大きな目が無防備に俺を見上げた。全身の血が沸騰しそうになる。指を動かしてその口に入れたくなった。笑っているときに大きく開いた口からよく八重歯が見えたものだが意外と小さな口をしている。 「んっ、みし、」  気付くともう指を入れていた。指先から溶けそうだ。温かい。噛まれてそのまま俺を押して逃げようとする。その直後に息を呑む音が微かに聞こえた。俺には保健室前で向かい合う緋野と新寺が見えていた。別れを惜しむような新寺の触れ方はただ同じ職場の人間という雰囲気とは違っている。それを能登島も目にしていた。新寺が緋野の頬にキスしているのも確かに見ていた。どこかへ行こうとする能登島の口を塞いでまた突き出た壁に隠した。保健室のドアが閉まるまで。緋野の背中が消えるまで。騒がないように押さえた手が濡れる。抵抗が弱まった。 「能登島」 「オレ、ガキだからさ……ッ。カッコよくもないし、甘えてばっかだから、別に、好かれてるとか思って、なかったし、」  俺から緩やかに離れて部活に戻ろうとする。 「俺と付き合おう」 「ヤに決まってんじゃん。美潮のコトなんかゼッタイ、好きにならないし」 「好きになる必要はない。緋野のことを諦めて欲しいだけだ。離れたほうがいい」 「ヤだよ」  目元を擦るのが後ろからでも分かった。 「部活終わりに迎えに行くから」  保健室に近い職員玄関へ能登島は消えていく。そろそろ部活終了の時間で俺もグランドへ回った。顧問を前に整列している。部室棟で能登島を待つ。群れながら帰ってきて、冗談か透視でもできるのか俺を能登島のカレシとして冷やかす声があった。悪い気はしなかった。騒ぐように否定し俺にも強要して部室に逃げ込んだ。大柄なチームメイトの陰に隠れながら出てくる奴を捕まえる。尻尾を掴まれた猫みたいに逃れようとする。 「なんで居んだよ~!」 「迎えに行くって言っただろ」 「来ないでッ!じゃあな!オレ、これから用があんだよ」 「緋野のところか。俺も行く」  逃げたがる首根っこを掴んで引き寄せる。緋野の名を出すと明らかに眉を下げて落ち込んだ。 「…ダメ。変なこと言う気だろ、どーせ」 「そうだな」  校舎に向かう足が止まった。 「誤解すんなよ。オレが緋野せんせのコト勝手に好きなだけだから。緋野せんせが誰のコト好きでも、オレ、傍に居られるだけでいいんだ…ウザがられるまで………でも…」 「分かった。緋野には言わない。ただし付き合え。離れようとしろ。緋野が新寺とデキてるなら尚更だ。別れようだなんて直接言われて、お前、平気なのか」 「…………付き合うとか言ったって、オレ美潮のコト好きじゃないからえっちなこと出来ないよ。バイト忙しーし、かっつかつだからデートも行けないし」  何も伝わっていない。そもそも俺が口にしていないのかも知れない。単純にこいつが馬鹿なのか。 「傍に居させろ。好きだって言わせてくれ。緋野から離れろ。この3つだけ守って欲しい。妙なことはしない、デートも要らない」  大きな目は迷っていた。 「ホントに、緋野せんせのコト責めたりしない?ゼッタイ?全部ナイショにしてくれる?」 「約束しないと不安か」  小指を出す。俺はこいつを未就学児だとでも思ってるのか。それでも冷えた小指が絡められる。

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