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第36話

-夕-  いよいよこの人死ぬかもなって思った。もうボクはこの人が今ここで死なないように監視しているようなものなのかも。心臓発作とかそういう内部要因みたいなのはボクじゃどうにもならないけど。たとえば通り魔みたいなのが来たり、大地震で校舎が崩れてきたりとか、大津波で海遠いこの地まで波に呑まれたり、突然過ぎる落雷、そういう場合もボクじゃどうにもならない。 「てんてー、大丈夫なんです?」  ただいきなり緋野てんてーが走り出して塀の向こうすぐにある通りで轢かれに行くとか4階から飛び降りるだとかはそれなりに阻止できるわけで。ここにいれば縄でも持って来ない限り首は吊れないし。大きな木はあるけど。舌噛み切るのはちょっとまた目的に込められた意味合いが違う。 「…あ、ああ。悪いな、何の話だったっけか」  掠れ切ったモーター音みたいな声で緋野てんてーは顔を上げた。 「猫を拾った話です。てんてー、猫は好きですか」 「好きでも嫌いでもない。普通だ」  いきなり振った話を疑う素振りもなく、緋野てんてーは息苦しそうに答えた。顔が赤らんでるとか咳とかはないけど体調が良くないみたいだった。もともと太ってないのに痩せた…っていうか頬が()けた感じがする。授業中も立ち眩み起こしてたっぽいの、すぐに教卓に手を付いてたけどボクは見逃さなかったよ。 「犬と猫ならどっちです?」 「…犬かもな」 「柴犬?シェパード?ゴールデンレトリーバー?」 「コリー」  ぼんやりしながら緋野てんてーはボクの質問に答えていく。また俯きがちになる。オーブントースターの(つまみ)みたいにゆっくりじわじわ。 「猫飼います?」  いきなりな話だったけど猫拾ってるのは本当。黄土色に黒の縞模様入ってるやつのオス。鈴カステラ付いてたし。鈴カステラがあるからオスなのか、猫の世界にそうじゃないこともあるのかは知らないけど。 「………え…?」  反応はめちゃくちゃ遅かった。しかも授業中とかこの変な青空部活動でも聞かない若い声で緋野てんてーは驚く。 「猫ですよ、子猫。拾ったって言ったでしょ。以前話したと思うんですけどボク、猫飼えないんですよ」  沸騰した鍋に入れたくなっちゃうから。 「猫…か」 「犬がよかったですか?捨犬なんて漫画なら見ますけど、実際見たことないです」  緋野てんてーはちょっと考えてる感じだった。猫とか興味あるんだ、この人。 「同居人に訊いてみないと。家、マンションだから」  嫁?お嫁さんかな。マンションってことは尚更。少し声の感じも軽くなって、これガチめに猫飼いたいのでゎ? 「飼えるといいが…」 「ただ……あの、何ていうか、よく居るこういう猫じゃないんですよ」  ボクは中にネコの輪郭を描いた。三角形みたいな耳2つと楕円形。絵はあんまり得意じゃない。 「どういうことだ……人間(ヒト)なのか」  猫って言ってるの聞いてた?なんでそこでヒトだと思うの。ああ、猫耳付けた人間ってこと?それってアダルトビデオじゃん。いくら年がそこそこ近いからって教師(てんてー)とする話じゃないね。 「チャリに轢かれたみたいで。耳が片方ないんですわ。お世辞にも可愛いとは言えませんよ。これは先に言っておきます」  同居人に断られた、マンションに許可が降りなかった、逃げ道はあるよな。ちょっとマジで飼いたそうだったから。 「…飼いたい。説得してみる。名前はもう決まっているのか」 「ボクは飼うつもりないんですから付けませんよ」  どう?ちょっと生きる義務感(きぼう)持ったかな。まだ飼えるって決まったわけじゃないけど。意向だけ聞いて実際は頓挫した、なんてよくある話だけど。もう飼う気満々で、名前決めてるのかな。緋野てんてーってアイスドールのクセに斜め上なタイミングで斜め45度一捻り、人間臭いことするから。 「案あるんです?」 「……ない。実際見てから決める。同居人と話し合ってから……………飼えるのかどうかも」  明らかに緋野てんてーはまた落ち込んだ。もし同居人多分嫁さんがNOって言ったらマジで首吊っちゃうかもな。 -月-  あの子はもう来ないのだと(ひかり)は言った。時間が止まったような感じがして食べていた豆腐つくねの味が消えた。胃があまり良くないらしい輝には少し塩はゆいかも知れないと感じていたくらいの味付けだったけれど。おれはそれを呑む選択しかない。何故ならあの子との関係は輝ありきだから。そうしたら次は捨猫を貰いたいと言い始めるものだから少し驚いた。障害があるかも知れないとか、家に居るおれに負担をかけるかも知れないとか、マンション管理会社にはもう許可を得たとか。猫に興味を示すのも意外で、(たら)のホイル焼きを食べる手が止まった。野菜を添えてはみたけれど輝はやはりあまり胃がよろしくないようで取り除いてしまった。出汁は取れているはずだ。朝はあまり食べず、学校でも食欲が湧かないどころか気持ち悪くなると言って板チョコレートで済ませているらしいから夕飯だけが食生活の要だった。などと少し別のことを考えていた。 「飼いたい」  弱りきった顔と声で輝は言った。ここ最近の体調不良だけでなく、躾や世話の負担がおれにかかることを後ろめたく思っているような弱さがあった。 「障害があるかも知れないって、どんな障害なんだ」 「自転車に轢かれて片方の耳が無いらしい。拾った生徒は可愛くないかも知れないと言っていた。だが俺は、飼いたい」 「猫が飼いたいなら保健所の猫でもいいだろう。障害のあるかも知れない猫をおれは世話できる自信がない」  おれは冷たい人間か。この家に来たことを後悔させるのは可哀想だ。後悔…そんな観念が猫にあるのだろうか。ただおれがその猫に対して後悔を投影してしまいそうで。 「猫が飼いたいんじゃない。その猫が飼いたい。どうしても。その猫がいい…どうしても……」  今輝を襲っている体調不良が偏執的にさせてるのは何となく分かった。あの子と何かあったことを聞かされてもう輝はぼろぼろなのかも知れない。猫のことは多分輝にとって本当は取るに足らないことだったはずだ。健康な状態なら。だとしたら健康な状態に戻った時どうなる。 「猫が飼いたいんじゃない」  また輝は念を押す。子供と大人のやりとりみたいだ。このままだとおれは押されて了承してしまうかも知れない。猫の躾や世話、粗相の始末をするのは構わない。障害がどの程度かは分からないが飼うなら精一杯のことはしよう。ただ問題は輝の内面的なところにある。 「猫を飼ったところであの子の代わりにはならない。それは分かるな。あの子はあの子で、猫は猫だ」  輝の表情が固まった。あの子が話題に挙がるようになってから輝は様々な表情を持つようになった。けれど今は、元に戻ったか或いは前より悪い。 「……分かって、る…」  おれは意地が悪い。冷たい人間で意地まで悪い。叱ったつもりはないけれど叱られたように(しお)らしくなっている兄の姿はあまり気持ちの良いものではない。兄といってもおれたちにとってはほんの記号でただ先に出てきてのが輝だっただけ。生年月日で示せる明確な兄弟の区分はない。 「分かっているのならいい。その猫を語るうえで消せない思い入れというものが自分を苦しめることをきちんと理解出来ているのなら。命を飼うんだ、業は背負う」  本当に理解しているのか。輝はおれを見て怯えた。理解するということは自分でどうにか出来ることでもないことは知っている。 「俺は…」 「輝次第だ。マンションの許可が降りているならおれはどちらでもいい。よく考えて決めてくれ」  子供として家族が増えるのとはまた違う。飼うなら飼育費用はおれからも出すけれど、飼うか否かは輝が決めたらいい。一度飼ったらもう手放せないことも分かっているはずだ。結局のところは人の手が加わった猫だから。あの子みたいに目の前に来て触れ合って放したくないと思った時に離別(さようなら)なんてこともおそらく出来ない。多分おれが。 -雨-  ショータが弁当持ちになっててなんか変な感じがした。姉ちゃんいるって聞いてたけど、姉ちゃんが作ったんかな。ちょっと大分手作り感満載の微妙に焦げ目のついた玉子焼きと豚の生姜焼きとか冷食でよく見るグラタンとか唐揚げ。ご飯にはごま昆布に小さなウィンナーが3本並んでる。弁当箱タッパーだし。姉ちゃんが作ったにしては、なんか、こう、でもあれか、食べるのはショータだもんな。恥ずかしそうに食べててなんで?って感じだった。オレのママンが作るキャラ弁より自然な感じあって恥ずかしく思うことない。 「今日お弁当(べんと)なんだ?」  あんま触れたくない話みたいでショータは顔真っ赤にしてこくこく頷いた。 「珍しいじゃん」 「……美潮がね、…作ってくれたの」 「はい?」  なんて? 「みしおが、つくって、くれたの…」  美潮って誰だっけ。1人しか知らないやオレ。食べ専どころか食べ専も務まらないでしょ、胃袋が小指の爪くらいしかないんだから。多分オレの知らない美潮でしょう。さすがにC組の美潮渚沙はないね、絶対ない。卵割れないでしょ。 「なんで?」  オレは混乱して理由なんか訊いても仕方ないのに。そんなん弁当作るなんて飾るためじゃないでしょ、食うためだわ。いや、ほぼ飾るためにオレのママンはキャラ弁作ってんだわ。主にSNSを。次点で息子(むすめ)の昼飯時間を。 「肉……付けろって」 「キッ、―」 ―ッッッツ。肉付けさせたいから弁当作って食わすの?フィジカルトレーナーですか?コーチかな?清々しいほどに気持ち悪過ぎてむしろ笑っちゃいそうだった。無理みが鬼。美潮にコクる女の子たちまでヤバい性癖(やつ)に見えてくる。現実見たほうがいいよ、キレーなツラしててもヤベェ性癖(やつ)なんだって。ショータが首を傾げてる。純真無垢な子に何してんだよ。 「キッチン、広そうだもんね~」  あの窓際大好き窓際族カビ陰キャの美潮とはまだ決まってなかった。上級国民三世なんだっけ?家から近いからこの高校選んだとか何とか。欲がないね~ 「う、うん」  ショータは写真映えはしないけど手料理って感じのするちょっと焦げ目がついて形も歪な玉子焼きを齧った。ヤバいほどマズいってワケでもないみたい。素直なショータはマズかったらカオに出るし。変なモノ入れてないよね。バレンタインチョコに爪とか血入れるとかよく言うじゃん。いや、美潮に限ってそれはないか。清潔感あるし。何なら潔癖っぽいところもあるし。あの美潮とはまだ決まってないんだケ・ド・さ!動物性タンパク質か、加熱もしてあるし、ま、安全っしょ。いや~でもきっついよ。それ食べないほうがいいとも言えないし。その点冷食の唐揚げとグラタンはまぁ安心。そうだよね?当の美潮は、別にまだあの美潮とは決まってないケド、どこかに行っちゃうし。米粒ひとつでお腹いっぱいってカンジでどこかで飯食ってんだと思う。自分が作ったっていう弁当食ってるショータを見てコーフンでもしてれば面白かったのに。ショータは生姜焼き食べてて少しニコってしたから美味しかったんだな。肉食べたいよね、ショータ。半分に割ったハンバーグあげた。美味しいって言ってへにゃって笑うから、美潮、これ弁当作りたくなるわ、分かるよ。オレが踏んだ以上に美潮はショータに惚れてんだ。ちょっとなんか、あ~、モヤモヤした。 「笛木ちゃ、ゴメン。えっと…美潮が作ったやつだけど、唐揚げ、あげるから…」  ハンバーグ半分あげちゃったことは別に全然関係ない。ショータ唐揚げ大好きじゃん。あとそれ冷食だから美潮作ってないしだからオレにくれるって言ってるならめちゃくちゃ良くできた良い子だケドその冷食の唐揚げとグラタンで消化して。 「違う違う!ちょっとベロ噛んじゃって!」 「だいじょぶ?」 「うん、おっけ」  美潮が作った弁当っていうのが重く()しかかる。美潮がショータのこと考えて時間割いて、味付けして、なんか手料理ってヘンだ。身体に取り込むタイプの個が出る作品ってカンジ。粘土で作った貯金箱とか布で作ったなんかカバンとかと違って、身体に入れるじゃん。なんか、だから、ちょっとヘンっていうか近くなるっていうか、毒みたい。美潮のガチさを感じちゃって100キモい。ガチで、マジめに、ショータのコト、()る気なんかな。いいじゃんそれで。オレが望んだようになってんじゃん。 「笛木ちゃん、お腹減ってないの?」 「あ~、ちょっとお菓子食べ過ぎちゃったかな。ショータ、食べる?」  イヌかウサギかも分からない小さなケチャップオムライスとパーツを作ってるチーズにはまだ手を付けてない。ハート型のハンバーグをもう半分あげちゃう。 「笛木ちゃん腹減っちゃよ!」 「ダーイジョブ。ショータこそ、すぐ空腹(ペコ)るんだから沢山食べなさいよ」  美潮の作った弁当がやっぱりモヤモヤした。ちょっと苦しい。美潮ってヤだな。嫌いだわ。でもオレはショータと付き合えないから。あーしがショータを狙うことすらもオレが許さない。許せない。こだわりが強くて困っちゃうな。あーしかオレか、そこにどんな違いがあるっていうのさ。あるよ。綺麗事じゃどうにもならない性差(リアル)ってのが。認識(プライド)ってのが。ショータは短いウィンナーを齧った。多分塩胡椒。菜箸で転がしたんだろうな、美潮。似合わな。

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