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第37話
-星-
しょうたが来て、もう2人だけでは会えないという。俺は扉に消える骨張った背中を追う。苦しくて熱い。つらい。悲しい。耳元で何か震えている。スマホが光っている。気持ちが悪くなる。胃の中のものをぶち撒けるのは燈に申し訳ない。寝汗は起き上がるとすぐに冷えた。ヘッドボードに置いたスポーツドリンクを呷る。荒れた胃が落ち着いた。俺がこの状態で燈には食事の面ですら気を遣わせている。俺に合わせて献立を決めているようだ。燈はがっちりしたものが好きだというのに。新寺からの着信を拒否して時間を確認した。訃報以外の電話を掛けてくるには失礼な程度に深夜だった。数件メッセージが入っている。夕食後すぐに返信せず放置していたせいだろう。この時間に掛けてくるなと言ったはずだった。だが返事は聞いていなかった。もう一度横になる気も起きず、床に足を下ろした。重苦しい夢の余韻もいくらか和らぐ。ただ現実のほうがもっと苦しかった。夢はまだ優しいほうだった。実際はしょうたを泣かせた。触れることも出来なかった。拒まれた。当たり前だ。今まで何をしたのか忘れたわけではない。吐気は治まれど別のものが込み上げる。手放さないと決めたばかりだった。情けなくなる。またスポーツドリンクを一口飲んで横になった。
吐気に慣れてコンビニのバターロールなら腹に入るようになっていくらか周りから心配された声もなくなった。むしろ少しずつ良くなっている。このまま新寺を煩わしく思うことにも慣れてしまいたい。麻痺さえしてしまえば。しょうたと元に戻った日々にも。
「てんてー」
大きな木の植え込みに設けられた腰掛にも座らず俺の左斜めに屈んでいる大神に呼ばれて現実に戻る。朝起きてからやっとまた現実に生きている気がした。それまでの俺は日常のコピーをそのまま演じていたようだ。俺は彼の話に相槌を打っていたような気もするし、ただ黙って聞いていたような気もする。それすらも分からないなら聞いていたうちに入らないだろう。つまりまるきり聞いていなかった。一切合切。
「すまない。何の話だったっけか」
大神はわずかに眉を上げた。それから普段の軽率な感じのする笑みを浮かべる。俺が話を聞いていなかったことを知っている目だ。
「いえ…、ただ呼んだだけです。このまま異次元行ったまんま帰って来ないかと思いましたよ。虚無の世界版・黄泉比良坂 的な。こんな俗っぽいところにはないと思いますけど。あっちの世界で出された食べ物は口にしちゃダメですよ」
「黄泉戸喫 だったか…よく覚えていないが。昔、大学で少し齧った。ほんの少し…」
「さすがです。でもシステムがばがばですよね。あっちの世界の食べ物は実は生きた人間には毒物だったとかなら別ですけど、なんか謎の不思議な神々のパワーで、それくらい見極めろよって思っちゃって」
ファンタジー通じないヤツですね、と大神は鼻の下を擦った。
「諸説あったような気がするが、現代でも通じそうな話でいえば、同じ飯を食ったら仲間…そういう約束になるそうだ。むしろあの世側が永住を受け入れたというべきか。ただ解放することはない」
「な~んか……あ~、反社みたいですね」
大神は首だけ向けて軟派な印象を受ける笑みをそのまま苦々しいものにした。そういう映画をよく観るのだそうだ。そしてこの話に一区切りがついたとき、俺のほうから言わねばならないことがあったと思い出す。
「大神が拾った捨て猫を是非うちで引き取りたい」
「OK出たんですね。分かりました。土曜の補習の後、一旦帰ってから連れてまた来ようと思うんですけど、緋野てんてーはそれでも大丈夫です?」
「あぁ。だが…大神はそれでいいのか。大変だろう。俺が車を出そうか」
「大丈夫ですよ。ボク、箱入り息子なんで、送迎なんです。ちょっと恥ずかしいですけど」
活発な大神には少し珍しい。テストやノートでは優秀な面があるが行動や言動からして家庭環境に問題があると思っていた。本人も意識していないようなところで。
「そうなのか。親御さんに悪いな。やはり…」
「大丈夫です、親には話してありますから」
「分かった。それならよろしく頼む」
大神は遠慮がちに笑った。
-漣-
冷凍食品は出来るだけ減らしたい。玉子焼きは必ず入れる。唯一それなりにまともに作れるから。昨日の夜に作ったものを温めてタッパーへ詰めた。母親は男が台所に来るのはおかしいという価値観の人間で、俺に台所を使わせたくないようだったが自分で食べられる分だけ自分で作ると強く出れば母親は下がった。そしてデリバリーサービスと決済の仕方を教わった。出来ることなら自分の足で買いに行来たいところだった。この関係が長く続くのならいずれは自分の足で。帰宅後の外出は厳しかった。学校の帰りに買い物に行くのもいい。週に何度か、毎日だと互いに負担になる。俺なりの考えて思い描いてみた付き合うということに酔っている自覚はそこそこある。出来れば形にしたい。それが能登島の側 で消えるものでも。今日は弁当ブログでみた牛丼を真似た。糸こんにゃくが入っている。玉ねぎも透けている。味付けもそこそこよくできている。何となくの偏見で紅生姜を添えるところをつぼ漬けに替え、紅身のグレーフルーツも剥いた。能登島は喜んでくれるのか。胸が少し苦しくなる。悪くない。緊張もする。
能登島は弁当の包みを受け取ろうとしない。合法的に触れていい気がした。能登島が嫌ならこれはハラスメントで、嫌でなくても合法非合法という話じゃないけれども。なかなか肉の付かない腕を掴んでバンダナで包んだ弁当を持たせる。
「あのさ、美潮……すごくありがとうって思うけどさ、オレんちすごい貧乏 だし、バイト忙しーし、食器洗うのだって…その、ホント、返せないんだ。何も…この前作って貰った分の費用だって、まだ…毎日遣り繰りするのも……大変で…」
能登島の大きな目が廊下を泳ぐ。声が震えて、少し目が強く照り付ける。
「要らない。俺が勝手に作った。能登島に食べて欲しいから。付き合ってるなら当然のことだ。何も重く感じることはない」
それでも能登島は俺の弁当を受け取らない。能登島に似合うオレンジのバンダナで結んだ。箸もクリア素材で黄色とオレンジの2膳セット売りしていたものを選んだ。能登島に食べて欲しい。どうしても。なのに能登島は力強く首を振る。パサパサとカラスが飛ぶような音がたった。
「でもオレ、付き合うっていったって、美潮のこと好きじゃないし。それは美潮も分かってるって話だよな…?」
能登島は俺の機嫌を窺っているみたいだった。何か上下関係が出来ているようで居心地が悪い。俺を傷付けられないくせにその言葉は直球で、別の面 で怯えているから中途半端だ。それが能登島らしさを失わせる。
「百も二百も承知してる。重いって言うなら帰り、5分だけ俺にくれ。それでいいか」
もう一度能登島に弁当を押し付ける。まだ解せないのか。学校生活、部活、アルバイト、家事。能登島にとっての5分がのんべんだらりと過ごしている俺とはまったく価値が違うことは知っている。
「…うん」
「ちゃんと食べてくれ。俺はそれで満足だから。能登島に美味しく食べてもらえるように作った」
「だから、そういうのが、重いんだって…」
能登島は俺から弁当を受け取ったが引っ込める腕はぎこちなかった。
「でもありがとな」
「いや」
時間差で教室へと帰っていく。もっと大々的に能登島は俺と付き合っていると言ってみたくなる。俺も教室に戻ると能登島は笛木と話していた。笛木は俺を見張るように見た。笛木と能登島は妙な関係じゃない。それはよく知ってる。性別を意識する年頃に入っていてもあの2人の間はまだ小学校低学年までの仲の良さがあった。邪推することさえばかばかしい。付き合っているのは俺でも、能登島には笛木のほうが数段も近い。能登島が笛木を引いて自分のほうに向けさせた。睨むような表情が途端に柔らかくなる。能登島も俺のことを好きになればいい。
「よ、美潮きゅん。元気?」
能登島と笛木のいた視界が大神だけになる。誰もいない校庭に顔を背ける。
「また礁ちゃん見てた」
大神は席について俺を冷やかす。そのとおりだから何も返せない。大神が居なければ俺は教室にいる間中ずっと能登島を見ているのだと思う。授業も手に付かず、時間の流れも忘れて。
「最近弁当持ちだよな~。この前のカツ丼弁当美味そうだった。野菜 無さすぎて胃もたれ起こしてたけど」
思わず大神のほうを振り返ってしまう。三白眼が開いて不思議そうだった。
「何 ?」
「いや…別に、用はない」
「美潮きゅんは消化不良起こしそうだね、そんな脂ぎったもの食べたら。霞しか食わないもんね」
霞しか食べられないとはよく言われる。無理して食べるものでもない。残すかも知れないと思うと食欲が失せる。口の中の感覚が変わる気がしてすぐに歯を長いこと磨けないような場所で物を食べられない。何より食べている姿を晒すことに羞恥を感じた。
「ま、礁ちゃん見た目そのまんま子供舌だから野菜 あっても食べないと思うけど」
大神は玄関のところの自販機で買ったらしきかなり甘い味付けの野菜ジュースを飲んでへらへら笑った。
放課後になってサッカー部が終わるのをっていた。たまたま通りかかった廊下から見下ろした中庭に大神と緋野がいた。座る緋野と蟻か何かを眺めているように屈み込む大神。話すには少し距離があった。不思議な空間を作り出していた。大神は立ち上がって緋野の前に立つ。緋野は項垂れていた頭を上げ、そのまま2階にいる俺のほうを見上げ気がした。大神と何か話している。能登島の代わりでも探しているのか。軽蔑が増す。大神はふざけたことばかりしているが能登島と決定的に違う鋭さがある。だから教師と付き合うなんてことはあるはずがない。俺はまたベランダに出て買ったばかりのヨーグルト味のジュースを飲んで校庭にいる能登島を眺める。これじゃ監視だ。能登島はグラウンドから俺に気付いたらしくベランダを見上げて止まったが、前のように手を振ったりはしなかった。何事もなかったようにまた走り去っていく。奴への感情が腫れていく感じがした。
「みっしーさぁ」
まったく予想していなかったタイミングでまったく予想していなかった声に驚いて跳び上がりそうになった。心臓が迫り上がった心地だ。
「ちょっとー、先に居たのはあーしなんですケド~。辛気臭いのが来て一気にサゲだわー」
笛木は隠れているとしか思えない死角に座り込んで肩を竦めながら首を振った。
「ちょっと、ジョーダンだって。機嫌損ねないでよ。あのさぁ、みっしーって女子からバレンタインチョコ貰ったことある?」
冷ややかに見下ろしていると笛木はわざとらしく媚びるように素速く瞬きして上目遣いをする。そこから話を振られ、俺は答えずにまだグラウンドを眺める。
「もらってるよね、100コくらい。余裕 のよっちゃん酢だこイカで」
「いや、もらってない」
「うっそだー。そーゆー見え透いた謙遜:逆にウザいってー」
「全部断ってる」
笛木は低い声で納得に似た相槌を打った。
「でも下駄箱に入れてる子いるのあーし見ちゃったもんね」
下駄箱に入れられてしまえば断わることも出来ず、下駄箱脇に置かれたゴミ箱に捨てていた。何が入っているかも分からない。
「それで、何が言いたい。その話はどこに繋がる?」
「一時期ってゆーか、今でもまだあるケド、バレンタインチョコに爪だの血だのを入れると想いが叶うって迷信、みっしー
、知ってる?」
核心に迫るよう求めても意味が通じていないのか笛木はまだ関係のなさそうな、前座にならないことを話し続ける。
「聞いたことはある」
「やっぱお店とか家族じゃない人が作った弁当 って怪しいなーってさ。ねぇみっしー。クイズターッイム!何の話か分かる?」
ついさっきの媚びた上目遣いは消えて、最近になって知った笛木の腹の黒そうな笑みは、すでに俺が何の話か見当がついていることを知っている。
「最近能登島が弁当になったこと、か」
「正解ッ。ボーナスポイントだわ、笛木ちゃんポイント100あげる。ちょっと、睨まないでよ」
俺は笛木を睨んでいるらしかった。能登島に弁当を持たせたのは俺だ。異物混入チョコレートと能登島の弁当に何の関係がある。
「変なもの入れてないよね?」
「レシピどおりに作ってる」
「そこに盲目 な恋のスパイスなんて入れてないよね?って訊いてんの」
「はぁ?」
思わず大声を出してしまった。異物混入しないよう卵を割るのも包装や皮を剥くのも気を付けているつもりだった。まさか何か入っていたのか。盲目な恋のスパイスなんて材料は俺の知らないものだ。スパイスというからには洒落た香辛料なんだろう。それがどう異物混入と関係がある。出口の見えない洞窟みたいだ。何歩先の話をしている?
「だから!唾だのザーメンだの入れてないよね?って訊いてんの!」
笛木も怒鳴るように言った。そして驚いた表情になる。おそらく俺も間抜けな顔をしていた。何を言われたのか意味が分からないが相応しくない単語は拾えた。考えたこともなかった。強烈な選択が脳髄に染み渡っていく。
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