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第39話
-漣-
部室棟に迎えに行くのが日常で、サッカー部の中でも俺は能登島の恋人ということになっていた。たとえ冷やかしでも。能登島は相変わらずの距離感で、何度か部室の外に顔を出したかと思えば遅くなりそうだからと先に帰るよう言った。待つと返せば明らかに不満そうな表情でまた部室に戻っていく。そのうちに不穏な音がして俺は部外者にもかかわらず部室のドアを開けた。掠れた、懐いた猫みたいな声だ。俺しか知らないはずの……緋野もおそらく聞いたことがある。制汗剤の匂いと共に部室中の視線を一斉に浴びる。着替えたり掃除しているやつらの中で能登島はホワイトボード前のパイプ椅子に座っていた。でも誰かの膝の上。
「ぁっ…ちょっ、……泰 ちゃ……っ」
胸を摘まむように触られて、能登島は背を反らす。よりそこを撫でてもらおうとしているように見えた。シャツを押し上げている場所を後ろから伸びる指が捏ねた。
「泰ちゃ…、放しっ、あっあっ、美潮ぉ、」
膝から降りようとする能登島を捕まえて、そいつは俺を見た。
「あ?美潮?誰」
能登島ほどじゃないが傷んで色の褪せた髪を黒染めしたらしく更に傷んでいる。髪を掻いて能登島を放さない。
「あいつ」
能登島が膝の上に座ったまま俺を指で差した。教室でもたまに目にする妙な光景は普通のことらしい。生憎俺にはまったく経験のない文化だった。
「あー、のっちの王子様か。すっげぇね、意外な付き合い」
「つ、つつ、付き合っては、別に、ない!」
「はぁ?ま、いーや。王子様待ってんだろ?」
「やっんッ」
能登島はまた不意に胸を摘まれて高い声を上げた。能登島は室内の空気が一変してることにも気付いてないらしかった。よく分からない傷んだ毛まで目の色を変えた。
「えっろ…」
「おい、能登島。帰るぞ」
部室の空気はまた戻ったらしかった。能登島ごと俺も散々冷やかされたがこの場から連れ去れるなら些細なことだった。周りの加勢ですぐさま能登島は荷物を持って部室から出てくる。
「だから先に帰ったらってオレ、何回も言っ」
「さっきの誰だ」
俺の横に並んだ細い肩を寄せた。部室棟は人目が多い。だが男が男の膝の上に乗っても誰も何とも言わない。男が男を抱き寄せたところで何の問題がある。
「さっきの?」
「胸まさぐっていたやつだ!」
「ああ、泰ちゃん。B組の。笛木ちゃんのこと好きなんだってさ」
要らない情報は早い。少し歩きづらそうにしているから足首でも痛めたのかと校舎前の数段ある階段に座らせる。
「足痛いのか。保健室まで行けそうか?」
能登島は暗いのにキラキラした大きな目で俺を見上げた。可愛いと思う。怒りも治まる。何に怒っていたのかも忘れかける。それでまた明日には笛木やあのB組のヤツに怒りが湧くんだから面倒なことだ。
「どこも痛くないよ、オレ」
「歩き方がいつもと違った」
「………」
顔を背けられる。言えないのか。俺は捲られたスラックスから晒された足首に触れた。暗い中でも目立つ色のミサンガが付いている。痛まないように気を配りながら片足を持ち上げさせる。
「…勃っちゃって。少し休んだら、治るから」
「いや、出したほうがいい。トイレに行こう」
「いいって!ホントにちょっとだから。いちいちそんな…」
「俺が嫌なんだ。誰かも分からないやつに触られて勃ったままなんて…出してくれ、頼むから」
俺は細い腕を引っ張った。能登島は立ち上がって前屈みになって歩いた。
「抱き上げようか」
「い、いいって!要らないッ」
能登島は少し怒った。胸がじわりと熱くなる。裏校舎の教室棟よりは少し新しいトイレに入る。芳香剤の匂いがする。電気を点けても暗い感じがしていくらか不気味な雰囲気があった。能登島は俺の袖を掴んだままで何をしに来たのかも忘れたようだった。
「もう治まったし…」
洗面所の鏡に怯えて俺を洗面器のほうへ押し出す。俺の背中にしがみつく能登島を鏡越しに眺めた。可愛いらしい姿に溜息を吐きたくなる。
「本当か?」
「こんな場所じゃ勃ちたくてもムリ…」
背中で硬めの髪が動くのが分かった。それから弱々しい声がした。面白くなって真横にある電気のスイッチを落とす。
「わっ!ちょっ、わっ!心霊現象 だ!」
俺の腹に腕を回して震えている。本当にこいつにとって怖いのは心霊現象ではないだろう。それで俺も本当に怖いのは心霊現象ではない。
「笛木に触られていた時も勃ったのか?」
「え……?うんだっておっぱ、」
「駄目だ。俺以外に勃つな。その前に俺以外に触らせるな!」
電気のスイッチに手を伸ばす能登島ごと正面から抱き締めた。芳香剤の匂いが強すぎて慎ましやかなこいつの匂いなんか掻き消える。このまま心霊現象が起きて暗闇に呑まれてもいい。
「ちょっ…ンなコト言ったって…美潮だってひとのこと言えんのかよ!っていうか電気…ぃ」
抵抗して俺を掻い潜ろうとする手を包み込む。
「俺は能登島にしか勃たないし、能登島にしか触らない。能登島のことしか好きじゃない」
「いいって、やめて、そういうの。そんなことよりさ、ね、電気点けよ?オバケ出ちゃうから!」
「聞かせろよ、能登島。俺のこと、好きじゃない?能登島はまだ、緋野が好き?」
俺から抜け出ようと必死になっている薄い身体が不思議と俺の腕や腹や胸にフィットする。
「電気点けてくんなきゃキライだって!美潮はオバケ怖くないのかよ!」
仕方なく俺は電気を点けた。その隙に能登島は俺から離れる。
「ビックリした~。西側のトイレはマジで出るらしいよ。怖~」
大きな溜息を吐くこいつは短く数えて10秒弱、長く数えて3秒も経ってない俺の告白なんてもう忘れている。
「能登島」
「あー、もうっ!オレは!オレは緋野せんせが好き。オレは緋野せんせがずっと好きだし、だから前にも言ったケド、美潮のこと好きになれないと思う。好きって言うなよ、怖いし……重い」
芳香剤が鼻に効く。目にも効くみたいだ。
「お弁当 も美味しいケド、美潮の気持ちに応えられないし…緋野せんせのこと黙ってくれるなら、このままの関係 続けるケド、好きになるとかは、ムリだから…ホント、ゴメン」
トイレを出て行こうとする能登島の腕を掴んでしまう。みっともなく縋り付くことしかできない。軽蔑していたドラマのヒロインみたいに。
「オレ、バカだし説明ヘタだからさ、ちゃんと言ってなかったらゴメンだケド、それがダメなら、別れ…っ」
「別れない!」
食ってかかっていた。細くて痩せた腕を容赦もなく力任せに引いていた。
「で、でもさ、美潮にメリットないよな…?オレは緋野せんせが好きで、美潮だって毎朝弁当作んの大変でしょ?オレ、マジでホンットに何も返せないし、かわいくないし、お金ないからデートもできないし、バカだから勉強も教えられない。ホントに…あれ?この話前にもした…」
「お前のこと好きだって言ってる。形はどうであれ付き合えるんだ。そんなチャンス逃せるはずない」
「美潮、重いって言われない?」
「言われない。言うような相手がそもそもいない。後にも先にも」
能登島は唇を尖らせる。キスしたくなって近付けた顔を突き撥ねられる。
「嘘でしょ。居るよ」
「居ない」
「ねぇ美潮。美潮のこと好きになってくれる人と付き合ったほうがいいよ」
「そっくりそのままお前に返す」
先に言い出したのは能登島のクセにみるみる落ち込んでいく。緋野がそんなに好きなのか。訊いてはいけない質問を本人にも投げてしまう。大神には一蹴された。それでも、自分を折り曲げてでも。
「……どうしたら俺のこと好きになる?」
努力はする。よく笑えというならそうする。愛想良く振る舞う。優しくしろと言うのなら優しくする。困惑している能登島の返答を待つ。
「そんなの分かんないよ」
それこそ嘘だ。能登島なら知っているはずだ。苦しい。好かれたい。能登島に愛されたい。大神や笛木ほどまで近くなくていい、俺を意識して欲しい。能登島以外に一体誰がその答えを持っているというんだろう。
「能登島…」
「じゃあ…緋野せんせになってよ。そしたら好きんなる………でもそんなのムリじゃん」
痛く鋭く突き刺さる。壊れそうだ。あと何度フられるのだろう。いつか終わる?どんな形で?能登島は泣きそうな顔のままトイレを出て行った。またみっともなく捕まえればよかった。捕まえられもせず追えもしなかった。
-月-
輝 は本当に子猫を連れ帰ってきた。生後2週間程度で目は開いていた。まだ灰がかった青い目で、本当に耳は片方しかなかった。失ったほうの耳は痛々しさも残さず毛に覆われ、元々そこが形成されていなかったようにも思えた。キジトラの小さな小さな猫で、輝は帰宅してから目を離さなかった。猫用のミルクを作って、排泄も腹をマッサージして促している。おれは少し活気を取り戻した姿を眺めて安堵した。人間が使うには低温度の湯が入ったペットボトルをタオルに包んで渡す。輝は子猫に夢中だった。いい傾向だと思う。ショウタとか名前を呼ぶまでは呑気に考えていた。柔らかな素材のタオルを敷いた箱におれの渡したペットボトルを置いてその傍にまたタオルで包んだ子猫を置いた。目を離さず眺めている。表情はおれが見てきた何より優しいけれど、果たしてこれでいいのか。夕食の買い出しに行く旨を告げて輝は小さく返事をする。日常と違うのは長いこと輝がリビングに居ることだった。玄関には買い込んだらしい猫用のグッズが置かれていた。キャットタワーはまだ気が早い。輝には言えなかったが現実的なことを言ってしまえば育たないことだってある。たとえどれだけ輝が愛情を注ごうとも自然の摂理には関係のないことだ。特にあの掌に収まるほどの弱々しい時期に受けた片耳の欠損はすでに傷口が塞がって完治しているように見えても負担になっているはずだ。在宅勤務のおれのほうがあの猫と関わる時間は長くなりそうだけれど深く踏み込むのは良くなさそうだ。おれの精神衛生上。きちんと世話はするにしても。共倒れになる。だってまだおれは立ち直れていないから。正直なところは。あの子がまた来てくれるような気がして、あの子がまだ居るような気がしていた。猫が来るまでは。けれどこれでいい。あとは時間が経って、真実が闇に葬り去られるのを待つ。穏やかな時間だったけれど輝とおれの罪に違いなかった。輝は生徒に、おれは子供に手を出した。そのことは変わらない。このまま一生背負う。
買い物を終えて帰宅すると輝はソファーの上で寝ていた。胸の上に猫が乗っている。それをタオルの上から手で守るように。珍しかった。けれど吐いてばかりで眠れていない夜のほうが多いくらいだ。このまま寝かせておきたくてブランケットを掛けておく。物音を立てないように家事に移った。それでもキッチンテーブルの上のスマートフォンは無情にもうるさく震えた。輝のだ。そして輝はまだ寝ていた。電話でもないようだからおれは起こさず気付かないふりをする。何度か子猫の様子も確認したが赤ちゃんらしくよく眠っていた。もう少し眺めていたかった。立て続けに輝のスマートフォンはメッセージを受信する。そのうち電話が鳴って輝を起こすしかなくなった。おれはショウを預かる。そろそろミルクの時間だ。燃え上がりような心地になった。説明書きを読みながら温度を調節したミルクを飲ませた。体勢にも気を配る。ショウはこくこくミルクを吸った。足が伸びて、やがておれの哺乳瓶を持つ掌を小さな小さな手で揉んだ。爪が甘く刺さり、肉球を何度も押し付けられる。こんな幸せなことはこの世にもう存在しない気がした。輝も夢中になるわけだ。電話に出るのを躊躇ってさえいた。まだ生まれて間もないというのに失くした耳の場所の丸みが尚更に庇護欲を掻き立てる。よく似た感覚が蘇って途端苦々しくなる。ショウはまだおれの掌に爪の先や肉球を交互に押し付けて立ちながらミルクを飲んだ。大きくなってほしい。手作りの唐揚げやとんかつを美味しい美味しいと食べてくれる姿が抑えても引っ張り出された。何を食べても美味しいと思える明快さと、本当に美味しいのだと伝わる素直さは刻み付けられてしまえばそう簡単に消せるものではなかった。ミルクを飲み終えた後は湿らせたガーゼで柔らかな下腹部を軽く揉んだ。説明書には肛門に擦り付けたりすると爛れてしまうとあって、慎重に排泄を促す。ガーゼにわずかな体温と湿気を感じる。無邪気なキトンブルーにおれは囚われる。身を捻ろうとする仕草が愛しい。頬擦りしてしまう。重ねてしまった感触とはまったく違う靄 のような柔らかすぎる毛並み。タオルの匂いと少しの生臭さ。輝に言ったことがそのままおれに返ってくる。輝に対して心配していたのではなく、おれがおれに対して恐れていただけなのかも知れない。保護欲は肉欲に置換される。輝は出掛けると言ってトイレに向かったおれとすれ違った。
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