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第40話
-夕-
黒焦げになった家の前に花束を置いた。不法投棄みたいになっちゃうかな。高校から抜け出して近くのスーパーで買った花束はこういう場にふさわしい種類のものかは分からない。見通しの悪い通りのすぐ横の区画で、家は密集していた。消火が遅ければ隣家 まで延焼していたと思う。まだボクの後ろの道には車が走るけどあと数ヶ月もすればここに繋がる国道から大きな道路が開通するからここもより一層寂れるんだと思う。潰れたまま放置されたパチ屋や、開いてるのか閉まっているのかも分からない廃墟みたいな食堂がぽつぽつあって、他は民家だった。少しだけ特殊な地形をした場所に新しく歯科医ができたけど多分すぐに経営難に陥 る気がする。なんとなく。この土地に住んでる勘…みたいなのが。外れてくれたらありがたいことだけど。だって他人の不幸なんて見ていて楽しいもんじゃない。この世の幸せの量 は決まっているわけでもないんだから、それならみんな幸せになったほうが巡り巡ってボクの得になるかも知れないわけで。でもピラミッドの上の人間と下の人間の幸せはいつの間にか両立しなくなった。何の話?金の話。金で幸せになる話。ボクはまた高校に戻ってなんとか予鈴に間に合った。チャリなら5分、走ったら10分、歩いたら20分。高校から近いところでその事件は起きた。ボクの周りではよくある話。借金苦の一家心中。クラスは少しその話題が出た程度でやっぱり他人事。ねぇ、親がヤバい連中から借金してるって知ってる生徒 たち、この中にどれくらいいるの。まったく知らない人たちの身に降りかかった不幸だけど、あの家の傍はよく通った。打算的 なやつかな、ボクは。ただよく通ったから、目にしてたかも知れないってだけの家庭の関係者ぶるのは。でも間違いなくあの家の無理心中の要因のひとつにボクの家が絡んでる。向いてないな、慣れるのかな。
「おっはよ、サトちゃん」
頬杖ついてアホ面晒してたら礁太が無邪気にやって来る。ある不安がボクを襲って、でもバレたくないからヘラヘラ笑っておいた。礁太の家の借金って消費者金融だよな。まさか。ボクは礁太の目を見上げた。大きな目がボクを見下ろして首を傾げる。礁太が焼かれる。家ごと?礁太が締め殺される?水風呂に沈められる?髪を掴まれて引き摺り出されてヤバい動画を撮られるんだ。裏ビデオとかいって。丸刈りにされて、チェーンソーでバラされて絶命するまで?身体が熱くなってそれでも手足はすごく冷たくなった。苦しくて気持ち良くなる。
「礁ちゃ…」
大風邪の終わりみたいに声は掠れてボクは礁太を呼べなかった。
「礁太」
あれ?ってなんかそう呼ぶには違和感のある声がしてボクのクソ雑魚ボイスは掻き消えた。礁太は肩を震わせて驚いた。礁太は口の中になんか焼け焦げた木材みたいなの咥えさせられていた。ボクの目はおかしくなってるんだと思う。チョコブラウニーだった。礁太は嫌がって口からそれを出すとボクの口元に持ってきた。
「要らないって。サトちゃん食べたら…」
ボクはそれがさっきの心中事件の焦げた家の材木にしか見えなくて身体を反らしちゃってた。
「ダメだ。お前が食え!」
美潮はなんか知らないけど究極に100怒っていてカンストしてた。礁太の手からまた焦げた木材…違ったチョコブラウニーを奪い取って、無理矢理口に入れようとする。頭おかしくなったんだと思った。
「食え…!」
「や、ヤダって!ヤ…!」
美潮は尋常ない。礁太の首を締め上げながら口に黒焦げた木材、違うチョコブラウニーを押し込もうとする。匂いはちゃんとチョコブラウニーっぽいんだけど、そんなに嫌がるってことはやっぱりボクの目がおかしいんじゃなくて黒焦げた木材なんかな。
「ちょっと、美潮きゅん…?」
クラスも変な感じになってた。だってふざけてじゃれ合ってるって感じじゃないもん。美潮はガチギレ大賞 金賞受賞してるし礁太も本気で抵抗してる。
「ちょっと、よせって美潮!頭おかしいよ!」
礁太の口の中でチョコブラウニーが砕けた。床にも散らばっていく。
「食え!食えよ!」
美潮はもう指ごと礁太の口の中に突っ込んでいて、ボクは必死に美潮を押さえようとしたけど全然ダメだった。振り払われてロッカーに頭打って床に倒れるとすぐに起き上がれなかった。クラスの人たちも加勢する。でもどうしていいか分からない。誰かが教師 を呼んでくると言った。
「食え…!」
礁太は顔を真っ赤にしてチョコブラウニーを捻じ込まれていた。美潮は一旦呆然としてる礁太から離れてタッパーを取りに机に戻る。
「ちょっと、みっしー!何してんの?」
笛木ちゃんが割り込んで礁太の傍に寄るけど美潮は彼女を跳ね飛ばす。そんな乱暴な美潮をボクは知らなかった。
「全部食え。お前のために作った。な、礁太。俺を好きになれ。俺を愛してくれ」
呟きは多分は言われた本人とボクと、もしかしたら笛木ちゃんにだけ聞こえたと思う。
「…っ、みし、んぐっ」
チョコブラウニーがまた礁太の小さな口に突っ込まれる。美潮の手は礁太の涎とチョコブラウニーで土いじりをした後みたいになっていた。チョコの匂いがする。
「み、ぁぐぐっ、」
小さな口に汚れた指を突っ込まれて礁太はもう吐きそうになっていた。
「美味いか?美味いよな。甘くしたんだ」
美潮の声は弱々しくて泣きそうだった。ボクには心中事件現場の家の残骸にしか見えないチョコブラウニーはタッパーに収まって綺麗に切られていたのに手掴みで砕かれて礁太の口からぼろぼろ落ちていく。でも美潮はそれすらも許さなくて落ちかけてたの全部無理矢理口に戻した。礁太は息も満足に出来ないみたいだ顔を赤くして涙目になりながらもがく。水に沈めた猫のこと思い出してゾッとした。あの暴れる姿は二度と見たくない。苦しくなる。
「やめろってぇ!」
ボクは怒鳴ってた。美潮に飛び掛かっていた。はずみでタッパーひっくり返して勿体ないことしたなって思った。ボクは美潮の胸倉掴んで床に押し倒してた。ちょっと女子がキャーキャー言い出す。大丈夫、キャットファイトだよ、ガチの喧嘩じゃないよ。そうだろ美潮、ボクら表面上 仲良いじゃん。
「放せっ!」
ボクは腕を美潮の首につけて床に挟んでいた。まだ水に沈めて暴れた小さな手足の、死にかけのセミみたいな動きが忘れられなくて半狂乱だったと思う。美潮の顔の上に吐いちゃおうかな。息が出来なくて焦った。ゲロは出ないけど呼吸しても酸素が入ってこなかった。この世がボクにとっての水中で、あの猫 がボクを沈めてるんだな。途中で飼育放棄してごめんね。でもどうしても熱湯に入れたくなかったんだ。次の飼い主はボクよりきっと良い人だから、許さなくていいけど救われてよ。
「殺すぞ」
ボクはゼェゼェ言いながら、小さい頃から何度も聞いてた言葉が「元気?」「最近どう?」みたいな調子で出てきちゃってた。美潮は信じられない顔してボクを見てた。変な息切れが止まらなかった。歳かな?まだ若いのに。変な息切れが止まらなくて戯けたことも言えなからへらへら笑うしかなかった。美潮はもうおとなしくなって少し呆然としてる感じがあった。てんてーも駆け付けたけどよりにもよって緋野てんてーで最悪だなって思った。ボクはまだまともに息が出来なくてあの猫 はもしかしたらもう死んじゃってて、妖怪 にでもなってボクを呪ってるんだと思った。このままこの世という水にボクは沈められているに違いない。自分のゼハーって呼吸の音までなんか遠い気がした。
「大神、大丈夫か」
ボクより礁太のがヤバくないの?でも緋野てんてーがボクの口元にハンカチ当てて背中を撫でてくれた。膝から力が抜けて浮遊感があって、ロッカーに凭れ掛かりながら座らされた。
「落ち着け。慌てなくていい。いきなり吸うな」
緋野てんてーの15万のハンカチまだ返せてないのにまた高そうなハンカチで。やめときなよ1枚500円くらいのにしておきなよ。これが大人の嗜みなの?腕時計も有名ハイブランドで成金っぽいし。これも大人の嗜みなの?おかげで息が出来るようなったけど名前もないあの猫 が浮かばれちゃったのかなって思ったらちょっと悲しくなった。ボクの傍に居るのよりは救われたって思い込みだけじゃ完結できなくて確証が欲しい、弱っちい生き物だ。
「てんてー…」
「保健室に行くか」
ボクは首を振った。礁太が見てる。緋野てんてーは礁太の傍に寄っていった。ボクはふらふらしてそのまま床に寝転がる。美潮はまだ呆然としてて、ただ緋野てんてーが礁太の背中を撫でてるの見てた。礁太はカエルがゲコゲコいうみたいな音出して緋野てんてーの掌にドス黒いゲロ吐いて、周りの人たちがティッシュとかトイレットペーパー用意してくれてた。少ししてから担任副担任が来て緋野てんてーは礁太を任せてボクのこと気にしてくれた。保健室に来るように言ってくれた。笛木ちゃんにも保健室行くよう勧められて、他の子にも保健室行きを推される。顔が真っ白いことを何度か指摘されてボクは貧血みたいで、それじゃ保健室行っても仕方ない。いきなり血液増量ってわけにもいかないでしょ。ボクはへらへら笑って躱した。
礁太のゲロシーンとチョコブラウニーと胃酸の混ざった匂いが頭と鼻にこびりつく。苦しそうで可哀想そうで、それ以外にも色々あるけど頭の中で何度も繰り返してるうちになんか叫びたくなるような訳わからない感覚に襲われて落ち着いていられなくなった。クラスの空気は変なまま。美潮は呼び出されて礁太も保健室。慣れないことをしてちょっと疲れてる。朝から散歩もしちゃったし。
美潮は結局戻ってこなかった。副担任が持ち帰る分の荷物のこと聞いてボクは適当に答えた。女子からノートのコピーも渡されて羨ましいね。副担任はボクにもやっぱり保健室行けって勧めた。そんなヤバげなのかな。座ってるのも正直しんどさはあったけど。礁太の嘔吐 するシーンとその匂いと音を何度も何度ももう忘れることなく頭に刻み込んでなんだが拷問みたいな心地がする。気持ち悪くて可哀想だったのにそこに気持ち良さが芽吹き始めて最低だった。本格的に具合が悪くなって視界がモザイク処理されたみたいな、古過ぎるケータイで撮った動画みたいな画質の悪い視界になって、机の上で頭を抱えちゃう。それでもまだ頭の中では礁太にゲロさせようとする。泥みたいになったチョコブラウニーげろげろ吐いて、辺りにはチョコの甘苦い香りがしてさ。背中と肩なんてぴくぴくしてた。もっと観たかったよね、もっと派手にやって欲しかったよね、なんで止めちゃったの、まだ観てたかったのに、美潮まだまだ頑張ってよ。そんな発想する自分が嫌になる。腹殴られて胃の中に入った心中現場の焦げた材木口から出すとこ、きっと美潮も想像してるんだ。ボクは授業が終わってから休み時間に保健室に行った。礁太の顔さえ見ちゃえば変な妄想しなくて済む。大変だったなって声掛けて、ボクは酷い妄想に蓋できる。腹殴ろうとか美潮みたいに喉奥まで指突っ込もうとかそんな妄想も止まる。校内の落ち着いた匂いがちょっとあのチョコブラウニーの匂いに似てた。意外と何事もなく保健室に着く。ただやっぱりちょっと長い運動した後みたいな疲れと踵が透明になっちゃったみたいな浮遊感はあった。保健室に入ればきっと礁太がいる。不快感と快感の狭間を泳いでるけど、すぐ助かる。この世は水の中だ。無いなら無いで喉が渇くのに。
――なんて甘い考えだった。礁太は寝ていて、ボクが近くに寄ると目を開く。起こしたかなって謝った。礁太は笑ってくれると思ってた。なのに礁太は怒ってた。ボクが助けられなかったから?見てるだけだったから?興奮を見抜かれた?ボクの伸ばした手はあの猫 が足蹴 するみたいに叩 かれた。
「サトちゃんなんて嫌いっ!」
まったく謂れの無い拒絶じゃなかった。あの妄想 がどういう理由かバレたんだ。ボクは笑っちゃった。だってどういう反応 していいか分からなかった。色んな計算が一瞬で終わって、笑えなくなる。
「礁ちゃん。ボクは、スキだったよ」
礁太の目が大きくなった。ボクは保健室から引き返してやっぱり教室に戻った。途中で帰り際の美潮に会う。美潮はちょっと落ち込んだ顔をしてボクに何か言いたそうだからボクはその背中を軽く叩いた。そのまま日常に返るクラスの雰囲気に浸りながらボクと美潮の席の後ろを横切る。
「暁ちゃん」
ベランダを開けると笛木ちゃんは少し心配そうだった。誰とも話す気分じゃなかった。でもボクの外面 ってのがあって。へらへら笑った。手摺りに後ろから飛び乗る。ふと合わせたままの笛木ちゃんの目に既視感があった。青空が見えて、でも遠くなる。この世は水だ。ボクは泳げず沈められる。ほんの一瞬で。そうだ、あの目は。思い出したけどもう頭は働かなかった。
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