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第49話
-漣-
ショータは可愛らしく口を開いた。チョコレートムースが薄いピンク色の唇に映えて、俺がそのまま食べてしまいたくなる。礁太は笛木の前でさえも朝から元気がなかった。雨のせいか。今まで気象病の様子なんて露ほども見せなかったくせに。でも俺には好都合だった。気温が下がれば下がるほど菓子にはいい。このチョコムースは特に調理過程で加熱はしても沸騰はさせないためいくらか不安要素がある。腹を壊す心配をするくらいなら最初から入れなければいい。作らなければいい。そうは思うが、譲れない。礁太に好かれたい。内側から俺で汚染したい。俺を拒みながら絡み付いて締め付ける場所からではなく、もっと別の場所から優しく。
「も、お腹いっぱ…」
「まだ入る」
小さく長いスプーンで礁太の口にチョコレートムースを運んでいく。柔らかな唇に上下から挟まれるこのスプーンになりたい。どうして俺はこのスプーンではないのだろう。次は礁太に使われるスプーンに生まれたい。
「何か悩み事でもあるのか」
「無いよ。なんで?」
「いつもと比べて様子が変だった」
「美潮には関係ないじゃん」
裸足の足が揺れる。俺の手の上に収まってしまいそうな小ささで、親指から小指まで舐めてみたくなる。焼けた肌で明るい色を放つミサンガが揺れると気が気じゃなくなる。襲ってしまいそうだ。今すぐ俺の両手を縛り上げてほしい。
「ある。礁太のことなら全部関係ある」
「…そういうのヤだ」
礁太は口を閉じて俺の遺伝子まみれのチョコレートムースを受け付けてくれなくなった。
「悪かった。許してくれ」
下唇を捲ると不機嫌な表情は直らなかったがまた口を開いてくれた。
「体調が悪いのなら絶対に無理をするなよ」
裸足は可愛らしいが気温も低く、雨で濡れたのなら余計に冷えるだろう。
「着るか?」
俺が今着ている学校指定のニットベストを摘んで訊ねた。礁太には大きいかも知れないが無いよりは良い。
「着ない」
礁太は体温が高い。それに暑がりだ。脂肪も少ない。レシピより砂糖や練乳を多めの分量にしてもなかなか太ることはない。
「寒くなったら言え」
「美潮のほうがすぐ風邪 になりそう」
「礁太がなるよりいい」
「だからそういうのヤ!」
俺は礁太の機嫌ばかり損ねてしまう。謝るしかない。これ以上嫌われたくない。好かれたい。愛されたい。それでも礁太が風邪をひいたり、寒さを我慢しなければならないなんて俺は耐えられない。
「悪かった。怒らないでくれ。もう言わないから」
俺の子供が混ざったチョコレートムースを礁太は最後まで食べた。俺が無理矢理食わせているのに律儀に礼を言って笛木のもとに帰ってしまう。それから近くのクラスメイトと二言三言話して、また別のやつと話している。騒がしい物音を立ててそこに隣のクラスのあの大柄なチームメイトも来て礁太を自分だけのものにしてしまう。そこに笛木が割り込んで、なんとか礁太は捕縛のような抱擁から解かれた。彼は菓子を食らいながら歩き、スティック状の芋菓子を礁太の柔らかな唇に突き刺した。その反対側をあのチームメイトが咥える。俺は沸き起こった感情の勢いが余って立ち上がり、同時にまた女子からの呼び出しに遭う。どちらを優先していいのか分からないが無頼なチームメイトのことは笛木が止めていた。俺の唇だ。焦りながらも呼び出しに応じる。
交際している事実を隠すことも出来ず俺はそれを打ち明けた。もう誰にも隠せない。俺には可愛い恋人がいる。好かれていなくても。食い下がられて、少し遅くなった。前のような苛立ちはなかった。俺も同じ立場なら諦められない。俺を呼び出した女子に俺を重ねた。それでも俺には可愛い恋人がいる。予鈴には間に合わずあと3分もしないうちに本鈴が鳴るだろう。すでに周りには人気 もなく、取り残されたような静けさがあった。他にも遅れたやつが居るらしく誰か下駄箱から慌てた様子で駆けていくのが見えた。でも教室棟ではない。C組の下駄箱だから教室に戻れば分かるだろう。そもそもそこまで興味はなかった。便所サンダルの上履きへ履き替える。ふと何かがゆっくり視界の端で動いているのが見えた。蛞蝓 が這っているのかと思った。下駄箱の扉を瀞 みの米の研ぎ汁のようなものが滴っている。俺は見慣れている。礁太の下駄箱からその下の下駄箱にまで落ちている。精液だ。寒気がする。俺の礁太にこんな下卑たことをして。下駄箱の扉を開けた。礁太の靴の上には破かれた紙が入っていた。靴の中まで紙が入り、一度出した形跡がある。爪先が俺側を向いている。そのまま脱いでそのまま入れたなら踵側が見えるはずだった。礁太もわざわざそんな面倒なことはしないはずだ。まるで礁太を表したような明るい色の少し草臥れたスニーカーにもべったりと精液が絡まっていた。密閉されそこに籠もっていた漂白剤のようで、独特の青さもある匂いに吐気がする。紙片を集める。赤いインクが染みている。狂気の沙汰だ。正気じゃない。靴に入れられた紙は丸められ、広げてみると礁太を貶すような言葉が大きく書かれていた。レギュラーの穴、ホモ野郎、インラン、マンコ要員。よくもここまで悪罵が浮かぶものだった。誰のものか分からないがそれよりもそんな誰のものか分からないもので礁太が汚されるのが許せない。なかなかハンカチで汚い欲望を拭いた。涙が溢れる。どうしてあんな無邪気な人間にこんなことが出来るんだろう。彼が生きていく世間の恐ろしさに震えた。モンシロチョウみたいな礁太は悪い人間に捕まって翅 を毟られるんだ。膝から力が抜けていく。簀子 に座り込んで、下駄箱に凭れ掛かった。少し土と、微かな饐 えた匂いがする。すぐそこにある時計の長針が軋む。本鈴はもう鳴っていたらしく耳は無意識に聞いていた。俺はまだ汚された恋人の下駄箱から離れられなかった。
「誰かいるのか?」
俺は息を殺した。新寺の声だった。近付いてくる。
「美潮くん?どうした?そんなところで。どこか悪いのか?」
新寺は急に焦り、俺の顔や首を触った。俺はどこも悪くない。手を洗ったばかりらしい冷たくしっとりした新寺の大きな手を払う。
「何ともありません」
新寺は俺の顔を覗き込む。妙に近い。俺に何かあれば保護者がうるさいのだからそれは腫物扱いになるだろう。仕方がない。
「熱はないみたいだが、貧血かな。無理は良くない。保健室に行こうか。先生も今戻るところだから」
ハンカチを握る手を触られる。気持ち悪いと思った。他人の体温は得意じゃない。
「何ともありません。本当に…」
新寺は俺を起こそうとしてついでに俺の腹に乗せていた紙を手にした。俺の抗議の声は間に合わない。読もうとしたわけでなくても十分、一瞬で読めてしまう大きさだった。新寺は顔を真っ赤にした。開け放したままの下駄箱を見て、そして俺を驚いた目で見た。
「礁太の下駄箱じゃないか…」
口にしたくもない。人とも話したくない。
「美潮くん…」
誤解されているらしかった。新寺は俺を信じられないような顔をして見ている。ただ話すのが面倒で、俺は黙ったまま向かい側にあるD組の下駄箱をぼんやり眺めていた。
「これは一体どういうことなんだ…?どうして…」
下駄箱に入った紙片を集めて新寺は俺を見下ろす。ふと靴の惨劇を思い出して俺も立ち上がった。早く拭かなければならない。靴を取り出して叩くように拭いた。また涙が溢れる。礁太の足を彩る靴をこんなふうに扱われて、悪意に囲まれて暮らさなきゃならない。怒りで身体が熱くなる。背中が汗ばむ。どうして礁太がこんな目に遭う。
「美潮くん、これはどういうことなんだ?説明してくれないと先生、分からないよ」
「分からなくていいです」
大まかに靴紐に付いた汚液を拭き取る。涙が落ちた。
「消毒液貸してください。スプレーの」
「分かったよ。でも君が心配だ。一緒に来てくれるな?」
何が心配なのか分からなかった。俺が犯人だとでも思って、それで犯行がバレたものだから逃げ出しはしないかってことか。もしくは。考えるのも喋るのも億劫で俺は靴を一度戻して新寺と保健室に向かった。逃げ出すつもりなんてその理由もないのに新寺は俺の腕を掴んだ。新寺を見れば気遣われてでもいるのか笑みを向けられた。
「洗濯しておくよ、そのハンカチ。すぐ洗った方がいいだろ?」
新寺は俺のハンカチを取って一世代前くらいの洗濯機に放り込んだ。
「手も洗わないと」
腕を掴まれて、水場に引っ張られる。
「自分で出来ます」
「ちゃんと綺麗に洗わないと。力を抜いて」
「いいです」
抵抗してみても新寺は離れない。どうしてそこまで生徒 の手を洗いたがるんだ。
「先生に任せなさい」
指と指の間に割り入ってくる手が気持ち悪い。指を扱くような動きや指の腹を揉む仕草に鳥肌が止まらず、腰が引けた。背中にはもう新寺がいる。異様に近い。たとえば新寺はサイコパスで、俺はこのまま殺されるのかと思った。興奮したような荒い息遣いはさらに俺を不安を煽る。そのうち校内放送で俺が呼び出された。緋野だった。あの教師でもこの状況だといくらか落ち着いた。
「内線を入れるよ。安心して」
耳元で囁かれ、吐息が当たる。泡だらけの俺の手が放され、息苦しさも消えた。新寺は適当に手を濯 ぎ内線を掛ける。俺もそのうちに手を洗った。早くアルコールスプレーでも抗菌剤でも借りて新寺とは別れたい。
「礁太とのことだけど」
受話器を下ろした新寺は親しそうに笑って俺を見ていた。
「あれは…その、美潮くんを疑ってるわけじゃないんだ。ただ確認のために…美潮くんがやったんじゃないんだよな?」
「はい。アルコールスプレー、借ります」
デスクの後ろの窓辺を指され、嫌でも新寺に近付かなければならなかった。警戒してしまう。それでも礁太にただ汚濁液 を拭き取っただけの靴を使って欲しくない。本当は洗ってしまいたい。窓辺に並んだスプレーのラベルの多くが紫外線を浴びて退色していた。除菌と消臭を謳った黄色の容器が目を惹いた。日溜りの香りらしい。礁太らしくてそれを手に取った。
「美潮くん」
また耳のすぐ後ろで声がする。視界の端に白衣の陰が見えた。振り返るまでもなく肘が当たっている。個人的距離間 を無視した近さだ。小さな子供の家族か恋人にしか許されない。
「近いです」
腰に新寺の身体が当たる。耳元に息がかかる。たとえば、どころではなく本当に新寺がサイコパスだったら?
「近いです!」
強く言ってみても変わらなかった。
「美潮くん」
腰や尻に当たる新寺の下半身が動いた。擦り付けるように。その動きを知っている。礁太と2人だけの時に。
「ちょっと気持ち良くなるだけだから」
肩に体温が乗った。スラックスの前にも重みが乗る。俺が礁太にやることだ。
「やめて、ください…」
俺の前を的確に掴み、肩から聞こえる息吹はさらに濃くなった。同じ男なら嫌でも何をしているのか分かってしまう。俺の前も形をなぞられ揉みしだかれる。
「は…ぁっ、はぁ、は…ッ、」
頸 の髪が擦れた。そこにも熱い息がかかる。俺は動けなかった。痴漢に遭った女子の話はたまに耳にする。男に告白されたこともある。様々な情報が駆け巡った。礁太にとってあの行為はこんなにも気持ち悪いのか。嫌がっていないのではなく、動けないのか。力が入らず、これ以上の接触を拒み、ただ現実から逃避したいがために。礁太の下駄箱を汚し中傷ビラを入れた者と俺は何ら変わらない。すまなかった礁太。悪かった。許してほしい。俺が君に好かれたいだなんて烏滸がましかった。あの大きな瞳に映りたいだなんて、侮辱に等しかったんだ。俺はもうされるがままに触られ、嗅がれていた。何も考えたくなかった。何も聞きたくない。喋ることもできずに、ただどこか一点を凝視することしか。礁太に懺悔しながら。申し訳ないと思うのに会いたい。謝って、もう変な料理を作るのもやめよう。愛されたいだなんて罪だ。礁太が俺をその目に入れてくれるだけで幸せなことだった。ろくでもない俺への許しだった。慈愛だった。
「はぁ…っ、ん、美潮くん…」
「美潮!チャイムから何分経ったと思っている!」
乱暴にドアが開き緋野が珍しく怒鳴っていた。俺はアルコールスプレーを持ったまま緋野に腕を掴まれて保健室の外へ引き摺り出される。
「新寺には近付くな」
そうだった、緋野は新寺と真剣交際をしていたはずだ。恋人の不貞なんか認めたくない。俺に当たるのも分かる。
「言われなくてもそうします」
「すぐに戻ってこい」
この教師の目が見られなかった。一緒に戻るつもりはないらしく緋野はすぐに踵を返した。俺はアルコールスプレーを持って玄関に戻った。土埃と少しの獣臭さに人工的なわざとらしい香りが混ざった。返しに行くのも気が引けてとりあえず教室に戻ることにした。一斉に視線を浴びたが緋野は構わず授業を続けて説明の延長そのままに俺に教科書のページと場所を告げた。
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