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第55話
-月-
小さい頃、父親が浮気して家を出ていった。父は自分たちを愛していなかったことをきちんと理解する前に、母のことや輝 のことに忙しかった。輝はおれよりも内向的だった。近所の公園に行ってもおれとしか話さなかった。おれの友人たちが来ると1人で隅の方に行ってしまったり、帰ったりしていた。父はそんな輝を気に掛けていたと思う。だから比べたり比べられものではないけれど、おれよりも輝のほうがその傷は大きかったのだと思う。ただそれは幼少期の話で、思春期を終えて親離れ子離れが双方できて、成人して、薄らいでいくものだと思っていた。地層みたいに。おれはその地層を断面図にして眺めることはあれど掘削 して手にとってまた目の前で眺めようだなんて思わなかったものだから、双子だからなんて世間の認識をまるきり当人たちの自分に置き換えてもみないで、輝もそうだろうと決めてかかっていた。
父親が出ていった翌日、輝は土を掘っていた。小さな山を作って手を合わせていた。父さんが俺たちを捨てるはずがないから父さんは死んじゃったんだと言っていた。今でもよく覚えている。だから葬式の練習をしているのだと。おれの友人たちは気味悪がっていたっけな。このことを母には話せなかった。おれは何も言えなかった。この後どうしたのかよく覚えていない。輝はおれが思うより繊細で、おれが思うより思い込みが激しくて、おれが思うよりずっと弱いんだとその時は上手く言語化出来なかったけれど、そういうつもりで接してきた。
鳴き癖もなく長鳴きもせず、むしろ声帯に何らかの障害を負っているのではないかと思うくらい控えめに鳴くショウタが喧しく鳴き喚いた。発情期の猫のようにうるさいくらいに鳴いて、おれに何か要求しているようだった。エサでもおやつの時間でもなく、どこか痛むのか心配になった。抱き上げると珍しくおれを噛もうとして身を捻る。床に降ろせば気が狂ったように走り出し、また着いた先で狼の遠吠えのような響きを持たせて鳴いた。そこは輝の部屋で、輝がショウタをいじめるはずがなかった。輝は手を焼いていないかとおれはドアの隙間を覗いた。足が見えた。窓辺で寝ているものかと思った。せめて着替えろと言おうとした。けれど何か、妙な感じがして何も言えずにドアを開いた。輝は床に倒れていた。寝ているのでもなく、寛いでいるのでもない。頭は真っ白になってショウタは尻尾を垂らしたまま歩き回っている。輝は吐いていて口から溶けた錠剤が溢れていた。口元に手を当てる。息はあった。けれどおれは生きた心地がしなかった。呼んでも呼んでも返事はなく、目も開かない。何をすべきかタスクは渋滞し、やっと救急車を呼ぶことに考えが至る。輝は動く気配がなかった。床に頬をついて、道路でよく見る野垂れ死んだ狸みたいだった。ショウタは輝の周りを徘徊した。目が合うと傍へ来た。
「ありがとう、ショウタ」
ショウタはまだ何か要求するように長く鳴いた。彼を撫でて落ち着かせる。知らせてくれなければ気付くのはいつになっていただろう。必要なものを揃えているうちにデスクの上のビタミン剤の空瓶とスポーツドリンクが目に入った。その近くのレターポケットに年金だの免許だの契約更新だのの書類の先頭にPTPシートの錠剤が差し込まれていた。輝が吐いていたのは大きさも色もこの錠剤らしかった。自殺かも知れない。ふと浮かんだ可能性におれは輝を振り向いてしまった。やがて救急車のサイレンが聞こえた。おれはショウタをケージに入れて玄関を飛び出した。救急隊員が輝の部屋に入り、おれは母に電話を掛けた。この後どうなるかはまだ分からないことだけれど、少なくとも今日はこれからペットホテルに預けに行く時間もない。ショウタの世話を頼みたかった。
-漣-
緋野が休養に入ったらしく、数学は別の教師に代わった。礁太はその後の休み時間に教室を出て行こうとしたから呼び止めた。緋野のことを訊きに行くわけじゃないのなら俺は何も言うつもりはない。礁太は少しびっくりした様子で俺を振り返る。笛木まで来た。考えることは同じか。礁太は逃げたそうにしていたが笛木が来ると少しは安心したらしかった。礁太を職員室に行かせるわけにはいかない。緋野のことを心配するのは分かるが、もう手を引いたほうがいい。
「緋野しぇんしぇのコトが気になるの?」
笛木の問いに礁太は頷いた。
「休養は休養だ。それが生徒 に言えるすべてで、職員室に行っても詳細は教えてくれないだろうな」
「…そんなの訊いてみなきゃ分かんないよ」
「礁太。何度も同じことを言わせるな」
礁太は唇を尖らせて俯いてしまう。
「でも、重い病気だったら?」
「重い病気でも軽い病気でも俺たち生徒には関係ない。礁太。礁太は生徒で緋野は教師だ」
「よっ!」
返事を聞く前に親しげな声と妙に暑苦しい感じが背中に迫った。俺と笛木の身長差を気にもせず両腕を俺たちに掛け、しかし顔は礁太に向いていた。
「どったの?2対1?じゃーぼくのっちチーム~」
忙しいやつだった。大きな図体はわざわざ俺と笛木の間を割り込んでぶつかっていく。
「王子様と縁のカップルにいじめられたん?ひでーな!暴力反対 !」
俺とは対照的に日に焼けた手が可愛らしい礁太に馴れ馴れしく触れた。話す距離も近くて、俺は吃逆 を起こしたような不快感に襲われた。
「ちょっと!ショータに触んな!」
ありがたいことに笛木は代弁してくれるが、おそらく気楽げな相手には微塵も伝わっていない。礁太とB組のサッカー部員はもう俺たちのほうを見ていなかった。
「なんでもないから、ダイジョブ」
「ホントかー?まー、いいケド。何かあったらいつでも言えよ。トモダチなんだから」
「うん。ありがと、泰 ちゃん」
礁太のチームメイトは礁太の光芒みたいな髪を乱し、あの柔らかな頬に口付けるとクラスメイトたちに呼ばれて行ってしまった。俺の恋人だ。悔しくなった。礁太を捕まえて触られたところを俺も触った。手の甲で唇が触れた箇所を拭う。
「トモダチなんだから、ほっぺにチュウくらい、いいでしょ」
礁太は少し機嫌が悪いようだった。あのチームメイトが口付け、俺が拭いた部分を乱暴な手付きで擦った。間接キスになることも構わず俺はあの男が口付けた場所にキスした。礁太は殴られたようにそこに掌を当てて俺から距離をとった。
「ちょっと、みっしー?」
「分かった…良いことにする。が、俺もキスする」
笛木にも腕を引かれさらに礁太と離れてしまった。礁太は拗ねた様子のままでまた職員室のほうに行こうとした。
「礁太!」
「トイレくらい行かせてよぉ!」
礁太は感情的になって叫ぶ。廊下に響き注目を集めたが当の礁太はまったく気付いてないようだった。笛木は1人にするよう言ったが俺は放っておけなかった。礁太はトイレには行かないで玄関前の共有スペースの腰掛に座って溜息を吐いた。追ってきた俺を罵って踞 る。蛹みたいだ。隣に座ろうとした。
「来ないで」
礁太は必要以上に大きな声を上げて自分が座っていた場所からさらに1人分隣にずれ、俺から少しでも遠ざかりたいらしかった。
「なんで付き纏うの」
「付き合っているから」
「美潮は宇宙人だよ。放っておいて。1人にして」
礁太の首に手を伸ばす。麻疹のように点々としている鬱血痕を見ないふりしていたが、放しておいたら礁太は自分自身にとって悪いことを繰り返してしまいそうで放っておけなかった。
「触らないでよ」
激しい動揺と拒絶で俺は礁太の首から手を下ろす。そしてそこには礁太の愛らしい手が添えられた。
「悪かった」
礁太は俺から身体ごと背けた。許してはくれないようだった。座面の上に足を上げ、体育座りで小さくなる。俺はその丸まった背中を横目に見た。
「緋野せんせと居られんのは、新寺せんせなんだもんね。分かってるよ。頭悪いオレのこと見て、嗤ってるんでしょ。美潮は、意地悪だから…」
「嗤っていられる余裕なんかない。嫉妬で狂いそうだ」
「……美潮がシットに狂う必要なんかないでしょ。分かってるから。あのこと言わないでくれるなら、ちゃんと美潮のニクベンキでいるよ」
「礁太!」
廊下に大きく反響するような声で俺は怒鳴っていた。驚きと怒りと、俺は礁太を守れてなんかいなかったことに対する不甲斐なさ。礁太は怯えた。当たり前だ。いきなり怒鳴りつけるなんて家庭内暴力予備軍だ。
「能登島先輩?いらっしゃるんですか?」
裏校舎側の廊下から器量の良い1年が現れた。共有スペースにやって来て、礁太の肩を支えるように触れた。サッカー部の部室で見たことがある。部室前で待つ俺にまで律儀に挨拶をして帰っていく1年だった。見るからに優等生といった感じの温和な顔付きとスポーツマンを思わせる引き締まった身体は、俺個人としては不快なギャップがあった。
「喧嘩でもなさっているのかと思いました。大事なくて良かったです。お邪魔してしまいましたね。すみません」
女みたいな目は俺にも向いた。人当たりの好い態度で会釈し、また戻っていく。職員室か美術室に用でもあったのだろう。その途中でおそらく俺の声を聞き付けた。
-鵺-
レイプしたのは僕なのに、まるで僕が能登島先輩にレイプされた気分でした。何故なら能登島先輩は僕に気付かないのに、僕の中には能登島先輩が宿り続けているからです。膣内射精をしたみたいに能登島先輩の体内に射精をしたのは僕のほうなのに、まるで僕が身籠ったみたいに僕の中には能登島先輩が居ます。強姦される能登島先輩は何よりも美しく、何人ものペニスを知っているくせに街中を歩く処女よりも清らかで童貞よりも初々しくありました。すでに写真にしたので、あとは折をみて美潮さんに届けようと思います。美潮さんもレイプされた能登島先輩の写真を肴 って自涜をするのがいいと思います。僕はもう5回も自涜をしてしまいました。ペニスが少し痛いくらいです。それでもまだ足りないのです。
僕は人がいなかったら能登島先輩の下駄箱に何か入れるつもりでした。避妊具か、あるいは玄関にある害虫コロリからの現地調達か。下駄箱脇のゴミ箱に鼻血らしき汚れたティッシュが入ったのでそれも良さそうです。しかし玄関前の共同スペースには能登島先輩と美潮さんがいました。喧嘩をしていたようで美潮さんは能登島先輩を怒鳴りつけていました。怒りと性欲は僕にとって同じものです。美潮さんもそうではないのでしょうか。あまり人はいないけれど公衆の場であることに間違いはなく、しかし動物になってここで交尾してしまっても僕は構いませんでした。今のところはここにはそのお二方以外僕しかいませんでしたから。けれども、もしその理由が能登島先輩がレイプされたからだったら、僕が沢山つけたキスマークのことだとしたら?と思うと僕も美潮さんの反応が気になって気になって仕方がありませんでした。ですが僕が能登島先輩の傍に寄り添ってみても美潮さんはただ軽蔑したような、すべてを見下しているような冷笑的な目を向けるだけでした。そこに怒りはなく、緊張感もありませんでした。何度、どんな角度から見ても淡白そうな美潮さんは淫豪な能登島先輩と上手くやれているのでしょうか。僕は美潮さんを観察していました。期待し過ぎていただけに落胆も大きかったのですがどうやら能登島先輩がレイプされた件でなはいようでした。それでも明日には、遅くても明後日には美潮さんにも素敵な能登島先輩の写真を贈るつもりです。能登島先輩は僕の粗末なペニスではorgasmに達してはくれませんでしたが、それでも僕のペニスを咥え、そこでspermaを受けたというところを恋人である美潮さんにも観ていただきたいのです。僕はペニス慣れしている能登島先輩がレイプされてorgasmに達さなかったことに、動揺と感動をしているのです。僕は能登島先輩がorgasmに達することに賭けていたからです。僕が中に出して塗り込んだspermaを掻き出す時にやっと能登島先輩のペニスは反応したくらいでした。これは美しいことです。恋をした娼婦です。僕は激しい興奮で夜も眠れませんでした。能登島先輩は僕のペニスではorgasmに達せなかったということを、はやく美潮さんに伝えたくてなりませんでした。しかし恋人ならば心で通じ合えるものです。僕はただ能登島先輩がレイプされても尚、その肉体にこの世の美しいオアシスとなって花を咲かせることを写真で伝えることしか出来ません。さらに僕の身体は渇き果て、また能登島先輩を求めて、求めて死んでしまいそうです。何故世界は能登島先輩のクローンを作り、全人類に1体ずつ能登島先輩のクローンを配らないのでしょう?能登島先輩のカラダを知ってしまったら人は本物を目指すものですから、本物の能登島先輩、つまり美潮さんのペニスでしかorgasmに達することのないクローンですら真似出来ない清らかな本物の能登島先輩を巡り戦争になるからです。僕はその戦争に参加することでしょう。そして美潮さんを惨殺してでも能登島先輩を奪うことでしょう。では何故そうしないのか、それは能登島先輩が今のところ1人しか存在しないからです。100万人で1人を殺せば刑です。10人で殺せば罪です。僕は殺人鬼にはなりたくありません、今のところは。僕は能登島先輩をその手に抱く日を想像してerectionしてしまいましたがそろそろ授業が始まるので、我慢です。能登島先輩を一目見た時から今に至るまでを考えればこれという試練でもありません。
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