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第56話
-漣-
下駄箱に入っていた写真に俺は絶句した。暗い部屋でフラッシュを焚かれ、腕を縛られ裸体を晒しているのは礁太だった。目隠しをされて、口の開き方やシャツの乱れ方からしてコマ送りで撮られた一瞬を5枚一括りにして3組ほど入っていた。おそらく叫んでいて胸元だけ晒したもの、泣いてるようで腹まで晒したもの、スラックスを脱がされたもの。目を背けたくなったが15枚、すべて確認した。胸が痛い。礁太の顔を見たとき、俺は冷静でいられるだろうか。息が詰まった。いつの間にこんな目に遭わされたのだろう。緋野のことも礁太はまだ振り切れていないのに。あの可愛い小さな身体で、あれもこれも背負う気なのか。何故気付けなかった。そればかり浮かんだ。あのB組のチームメイトなら気付けた?俺では礁太の何も守れないのか。簡単に絞められてしまいそうな首に散った鬱血痕を、俺はてっきりあのチームメイトにやられたものだと思っていた。見ない振りをしていた、見たくなかった。俺よりもあのチームメイトのほうが相応しいような気がして。それがこんなことになっていたなんて。前に比べて異常なまでに俺を遠ざけたがる理由はおそらくこれだ。到底口にできない下卑た言葉で自虐したのも、おそらく。
登校してきた礁太は俺の顔を見るなり顔を逸らした。他の女子と談笑している笛木のほうばかり見て、逃げたいといった様子だった。
「礁太…」
無視もできないお人好しの礁太は俺から顔を背けてもその横顔は困惑していた。
「悩んでることとかあったら……言えよ。いつでも相談に乗る…」
「美潮に付き纏われて困ってる………」
礁太はぼそぼそと返事をした。俺のほうは少しも見ない。
「すまない」
礁太には似合わない暗い表情が前を通り過ぎる。首には虫刺されのような赤い痕が少しは薄くなっていたものの、点々としていた。切り出せるわけがなかった。強姦されたか否かを打ちのめされた礁太に訊けるはずがない。あのチームメイトならスマートに訊けたのだろうか。礁太を傷付けることもなく。あのチームメイトなら。俺は逆立ちしたって、あんな風にはなれない。俺は礁太には相応しくない?それでも今の立ち位置に固執するしかなかった。手放せるはずがない。卑劣でも低俗でも、俺は礁太を放せない。何の繋がりもなくなるなんて考えたくもない。
「礁太…」
「ショータ」
「のっちぃ」
俺の声は同時に重なった他の大きな呼び声に消えた。
「おはよ、ショータ。元気ないじゃん。腹痛いの?」
「おはよ、のっち。元気ないじゃん。腹痛 ?」
まるでC組の生徒同然にあのチームメイトは礁太と笛木の間に入っていく。よく喋りよく笑う。努力はしているつもりだった。他のクラスメイトとも話すようにしている。笑うよう意識してみた。それでも礁太が求めているものとはまだ遠いらしい。当たり前だ。笛木もあのチームメイトも打算もなく自然にやっている。俺みたいに礁太に好かれたいからではない。彼女等といたほうがいい。離れたところから礁太を眺めた。魔の手から救えなかった。笑わなくなった姿に苦しくなる。誤魔化すようにやり過ごすだけの作った笑みがつらい。B組のチームメイトは礁太の肩を抱く。礁太の憂いを気にしていないのか、気付かないのか、あのチームメイトは陽気だった。本当に好きなら、礁太はあのチームメイトに任せるのがいいのか?あのチームメイトなら、礁太が強姦されずに済んだのか。礁太を手放したくない。中身が伴っていなくても恋人でいたい。この肩書なしで、俺は礁太とどう接すればいい?
「みっしー」
肩に置かれた笛木の手を思わず掴んでしまった。
「うっわ、ビックリした」
礁太のものより細い手を俺は放した。大神が見ていたら冷やかされていたかも知れない。
「なんでショータ、あんな元気ないの。緋野のコト?」
彼女の目はB組のチームメイトに抱き寄せられている礁太の背中を見ていた。シャツに背骨が浮いている。
「情熱的 なカッポーのコトとやかく言うの鬼野暮 だケドさ、首のキスマーク、さすがにやり過ぎじゃない?あのチン毛野郎がサカっちゃってるじゃん」
話題にされるのとほぼ同時にあのチームメイトは礁太の首に鼻先を埋めた。俺はただ瞬くことしか出来なかった。
「そうだな」
俺は礁太を呼んだ。礁太より縮毛のチームメイトのほうが先に振り返った。
「恋人 ピッピッピが呼んでるよ」
チームメイトは礁太をべたべた触った。放さないかと思ったがむしろ反応を示さない礁太を促していた。笛木は礁太とすれ違うように俺から離れた。チームメイトはオレたちのほうを見ていた。目が合うと手を振られる。まるで喧嘩を売られたような気分になった。礁太は軽蔑するような目で俺を見る。
「少し話したいことがある」
不用意に伸ばした手を払われる。これは俺が悪かった。
「美潮と2人きりになりたくない…」
「そうか。それならここでいい」
礁太は目を合わせてくれなかった。首や胸元に散る鬱血痕が痛々しい。この身体が強姦魔に好き放題されたのかと思うと、全身を掻き毟りたくなるような怒りを覚えた。
「その首の痣のことだが…」
「ねぇ、美潮。別れよ、ホント。あっちこっちで浮気しまくられるのイヤでしょ。別れよ。っていうか別れて。だって今緋野せんせいないし…緋野せんせが戻って来てくれるまででも…」
「礁太はどっちを強く望むんだ。緋野が戻ってくることと、俺と別れること」
「緋野せんせが戻って来てくれるほうに決まってるでしょ」
何故俺は傷付こうとするのだろう?期待していた。ほんのわずか。たとえ俺を好かなくてもいいから、緋野に冷めた素振りを見せてほしかった。好きでもない相手と付き合うことを選ぶほど、礁太は緋野を好いている。まざまざと見せつけられ、否、自ら見てしまった。
「別れたくない」
「オレは別れてほしいのに?浮気してるのに?」
日に焼けた指がシャツの襟元を開く。首筋の夥 しい鬱血痕を直視できない。
「本当に浮気なのか」
強姦されたことは浮気じゃない。卑屈に笑う礁太を見て、あの幼くて無邪気な礁太はいないのだと知る。それでも礁太が好きだ。放したくない。別れたくない。みっともなくていい。縋り付いていたい。中身もない関係に。
「見たでしょ…見たんでしょ…」
礁太は首を掻いた。
「礁太…」
「別れてよ、お願い。別れてよ!」
クラスが少し騒めいた。別れて、別れて、と繰り返した礁太は俺の腕を掴んだ。
「礁太」
「緋野せんせ、倒れちゃって、きっと新寺せんせがお見舞いしてて、もうオレ、最初から負けてたのに、完負けじゃん。良かったでしょ、楽しんだでしょ?面白かったでしょ?」
「礁太…」
不安定になった礁太は泣きそうになっていた。
「オレの負けだよ、だから緋野せんせのあのコトも言わないでよ。謝るからさ、全部謝るからさ、階段から突き落として悪かったよ。土下座するから許して。オレの負けだから。美潮が上でオレがずっとずーっと下だから。あのコト言わないでよ、何も面白くないでしょ?」
他に人がいることも忘れたのか礁太は泣きそうなまま俺に訴える。俺は一度だって礁太に謝罪を求めたことはなく、謝罪される理由もない。俺と礁太のどちらが上でどちらが下なのかもまったく考えたことがなかった。
「落ち着け、礁太。俺は礁太のことを許すとか許さないとか、勝ちとか負けとか、そんな…」
「オレの負けです。許して…お願い。写真も全部捨ててよ。動画も消して。オレの負けだから。許して。美潮が上でオレが下。美潮が勝ちでオレは負け。どれくらいか分かんないけどお弁当代もちゃんと働いて返すから…いつになるか分かんないけど、ちゃんと…」
「動画って何だ?写真?おい、礁太。その首の痣は何なんだ?誰かにいじめられているのか?」
触ろうとすると礁太は怯えた目をした。何をされたんだ。何の話をしている?
「オレの負けです。美潮の家 はお金持ちなんでしょ。お父さんとお母さんもいてお祖父 ちゃんはすごく偉い人なんでしょ。女の子にもモテモテで、勉強もスポーツも1番じゃん。借金まみれで古いガタガタのアパートに住んでる赤点ばっかのオレよりずっと上だよ。オレなんかのこと恨むだけ時間のムダだって。ね、ね、許して。ちゃんと土下座する、ちゃんと土下座するからもう許して…」
しまいに礁太は泣き出してしまった。崩れ落ちそうになった身体を支えようとするが、拒まれた。礁太は顔をぐしゃぐしゃにして鼻を啜りながら土下座した。教室は静まり返り、クラスメイトの視線が刺さる。笛木はすぐに礁太に駆け寄ってきた。あのチームメイトもやって来る。
「どしたー?」
「なんでもない」
礁太は涙で濡れた目を雑に拭いて、あのチームメイトには笑った。
「許してクダサイ、許してクダサイ、許して…許して……オレの負けです。階段から突き落としてごめんなさいでした。二度としません、二度と、美潮に調子づいたコト言いません…」
俺はもう頭の中が真っ白になっていた。それでも思考回路は機能したままで、俺は何か酷い、とんでもない勘違いをされているみたいだった。動画、写真。それが引っ掛かる。俺は礁太にカメラを向けたことなんてない。
「のっち…?」
「何、何、何?どうなってるの…」
笛木はすぐさま礁太の傍に駆け寄ってきた。廊下に引っ張り出されていく。チームメイトは俺を嗤っている。
「何した?」
剽軽な印象ばかりあるサッカー部のチームメイトは顔だけ笑い、その声は怒っていた。
「緋野てぃーのコト、詰めた?」
「違う」
「なんでのっちのコト泣かすの」
「分からない」
本当に何が起こっているのか、まるで分からなかった。
「あの首のキスマーク付けたの、ボクだよ」
ぎらついた目で礁太のチームメイトは俺を見た。
「キスマークだけか」
「セックスもした」
「縛り上げてか?」
「いくらなんでもデリカシーないよ」
苦笑してはいるが怒っているようだった。強姦魔はこいつなのだろうか。断定にはまだ早いような気がしたが、自白している。つまりは俺とこいつを礁太は勘違いしている可能性がある。声が似ているのかは分からないが、写真からして礁太は目隠しされていた。
「動画と写真は消してやってくれ。俺からも頼む」
「は…?」
「動画と写真は消してやってほしい。礁太が不安の日々を過ごすのは可哀想だ。頼む」
頭を下げる。求められるなら俺も土下座する。礁太に対してやれることなど俺にはこれしかない。
「俺のほうでも写真はきっちり処分する。二度とあんな怖がらせるような真似はするな」
「何の話…?」
軽蔑の念が消えなかった。忌々しい写真を今すぐに焼きたい。チームメイトは顔を引き攣らせる。俺はもう相手にしなかった。予鈴で礁太は教室に戻ってくる。まだ泣いていた。別れるのが一番良い。好きなら束縛していいわけじゃない。別れるのがいい。
昼休みになって俺は教室を出た。礁太を視界に入れるのは苦しくて、落ち着かなかった。共有スペースに逃げ込んだ。隣のクラスの女子から話があると言われたが応えている余裕はない。玄関に背を向ける腰掛に座って俺は校舎西側にある渡り廊下をあてもなく見ていた。ぼんやりしていると礁太とのことばかりが蘇った。別れたからといって何が変わるわけでもない。セックスが出来なくなることを恐れている?キスできなくなることを?抱擁も出来なくなる。でもそんな即物的なものだけを求めていたんじゃない。カラダだけじゃ満たされなかった。今までだって無理矢理に自分の欲を満たしてきていただけ。それだってまだ物足りなかった。俺は欲深い。俺は礁太に相応しくない。俺は礁太の本当の恋人にはなれない。
「みっしー、ここにいた」
笛木の声で呼ばれ、彼女を見れば探したのか少し息を切らしていた。
「別れようと、思う」
何を話しているのだろうと思いながら止まらなかった。彼女は目を丸くした。それが意外に思えた。礁太の話でないなら、笛木が俺のもとに来ることはない。事務的な話だったのかと思うとばつが悪くなった。
「土下座が効いちゃった?」
クラスで見せる陽気な態度とはかけ離れた嫌味ったらしい苦笑を浮かべ、笛木は中庭と渡り廊下と空しか見えない窓際に立つ。
「伝えてくれ」
自分の口から言うべきことなのは百も承知だった。第三者を介することじゃない。それでも礁太を前にしたら決心は揺らぐ。退路を断ちたい。
「伝えない」
「伝えてくれ…」
「ストーカー事件とか面倒臭くなっちゃった?」
「なるわけない。出来ることなら俺が守りたかった。でも出来なかった…」
笛木は鼻で嗤う。
「やっぱみっしーって嫌いだな、あーし。あーしからは言わないよ、それ。伝書鳩なんて真っ平めんご。ま、結 の婚してたって浮気元気不倫大好きはあるんだし、付き合うなんて切った貼ったの関係 じゃ、別にみっともなく縋り付く必要はないね」
彼女は肩を竦めた。俺の死活問題を裏の顔を出す笛木は取るに足りないことのように言う。
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