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第58話

-漣-  礁太の身体は見た目より少し重い気がした。小柄だが筋肉質で、それでも守りたくなるような頼りなさがある。それで俺は守りたくなっても守れなかったのだからお笑い(ぐさ)だ。過保護な母から何かあった時のためにと渡されていたタクシー代を使い礁太を家へ連れ帰る。まさか本当に使う日が来るとは思わなかった。まだまだ親に頼らなければ満足に事も運べない子供なのだと知る。それに比べて礁太は高校生活を潰してまで経済活動に(いそし)んでいる。礁太はまったく起きる様子がなく、タクシーから降すのも苦労を要した。息はあるが、あのサッカー部の後輩が言うようにただ疲れて寝ているだけにしては病的な感じがある。玄関の(かまち)に座らせ、靴を脱がせた。奥から母親の足音が聞こえる。恋人を連れ帰るとメールはしていた。恋人がいることは忘れもしない、大神と最後に会った日として印象に強く残ったあの日に俺は母親に恋人がいることを告げた。母親だけじゃない。弁解を必要とした人には誰にでも。隠すことのほうがおかしいとすら思った。  しかし母親は礁太を見てヒステリックな声を上げた。心臓に悪い、陰湿な、気の滅入るあの悲鳴だ。これを聞くたびに俺は母親とまともな言語で分かち合うのは無理なのだと悟り、何より歩み寄ろうとする気も起こらなくなる。俺はまだ眠っている礁太を背負い、母親に構わず自分の部屋がある2階に上がった。あの陰険なスリッパの音が後ろから追ってきている。自室のドアを閉めなかったのをいいことに母親は中を覗き込むどころか入ってきた。 「そちらは…?一体、どういうことなの?」  俺は礁太をベッドに寝かせた。息は確かにしていて、胸元が動いてる。しかし眠りが深すぎるような気がした。 「説明してちょうだい!」  一歩一歩母親が近付いてくる。俺はそんなことよりも礁太が寝違えたり寝苦しくならないかのほうが大事だった。少し汗ばんでいる肌を拭きたくてデオドラントシートを探す。 「凪沙ちゃん!」 「ヒステリックに騒ぐのはやめてください」  母親は一喝するように呼んだ。これでは礁太が起きてしまう。不快に。それは可哀想だ。 「恋人が他の人の家に泊まろうとしたのを止めたんです。何も問題はないでしょう」  デオドラントシートを抜き取って、俺は礁太の首を拭いた。また点々とキスマークが浮かんでいる。第3ボタンまで外れているのが心配になる。胸を拭いて、腋にも手を入れる。 「仲の良いお友達よね?」 「以前お話したとおりの俺の恋人、能登島礁太です」 「悪い冗談はよして!」  母親はまた耳を(つんざ)くような声を上げた。礁太は眉ひとつ動かさない。息はある。本当に寝ているだけなのか怪しかった。 「発狂するのならもう質問には答えられません」  俺は母親を部屋から押し出した。母親はまだ居座ろうとする。 「前みたいに気の迷いだとか方便だとか言うのはやめて、そのまま受け取ってください。彼が俺の恋人です」  力尽くで母親を廊下に出して鍵を掛けた。 『凪沙ちゃん!』  話したはずだ。俺が礁太に無理強いをして、早退した日に俺は呼び出された職員室で学校側にも話した。家に話されることにも恐れはなかった。どうして礁太が恋人であることが、人に話せないような後ろめたいものなのかが分からない。むしろ嫌味になってしまうくらいだ。礁太は俺の恋人だ。俺は礁太の恋人だ。 『もうお父さんが帰ってきちゃうのよ!』 「ありがたいことです。同じ話を何度もせずに済む」  父はこの母親に頭が上がらないのだから、父の帰宅する時間が迫っていることはまったく俺にとって何の脅しにもならない。母親はその癖みたいな発狂やヒステリックな物言いが、ただでさえ母親にとっての父親つまり俺の祖父の威光によって家の隅へ隅へ追いやられ顔色を窺い取り繕うしかない父をさらに委縮させ尻に敷き、不機嫌と神経質で父や俺をコントロールしてきたことに自覚がないのか。 『凪沙ちゃん!能登島くんて、あの能登島くんよね?凪沙ちゃんを突き落とした』  俺はもうドアから離れ、制服では寝辛そうで皺にもなるだろうと考えて、全身を拭き俺の寝間着を着させた。ぐったりして眠り、寝返りもうたないために少し体勢を変えさせた。寝息は規則正しく、(いびき)も歯軋りもなかった。クラスでは明るく賑やかなくせ、寝るとそこに居るのかも分からなくなるほど静かになる。胸が小さく疼く。  礁太はずっと眠り続け、夕飯時にノックされたかと思うと、廊下には2人分の食事が並んでいた。罪悪感に襲われる。言い過ぎたかも知れない。ここに礁太を連れて帰ってこれたのは父の稼ぎと母親に余分に持たされた金のおかげだ。きちんと話すべきだ。父にも。母親にも。息子の恋人を。ただ、まだ言いたくなかった。礁太の恋人に俺が相応しくないような気がして、まだ足が竦む。トレイを部屋の中に運び、俺は礁太の傍で、30分ごとに体勢を変えさせる。その時にわずかに寝息が乱れるだけで、本当に礁太は静かだった。この身体で様々なことに耐えている。そして俺のこともそこに乗っているのだろう。また30分が経ち、礁太に寝返りをうたせた。その時に礁太が動いて俺の腕に頭を寄せた。 「ひかりせんせ…?」  日に焼けた小さな手に引き寄せられて、礁太の可愛い唇が俺の唇を塞いだ。俺を呼んだわけじゃないのに、甘えた声が何度も繰り返し俺の頭の中に響く。礁太とキスするのは初めてじゃない。だが礁太からは初めてだった。たとえ俺が相手でないつもりでも。 「おなかいたい…」  礁太は俺の腕に頬擦りした。腹痛を訴えたため腹に伸ばしかける。 「腹が痛いのか…?」 「ひかりせんせ…………じゃない」  また眠ったのかと思ったが礁太は飛び起きて俺を突き飛ばした。 「なんで…ここどこ……?」  礁太は自分の腹を摩って顔を歪めた。汗で冷えて腹でも壊したのか。それでも辺りを見回して、傷を負いながらも天敵と対さなければならない動物のようだった。 「トイレ、出てすぐにある」 「ここどこ?」  礁太はまだ腹を押さえながら首を振った。 「俺の家だ。それより…」 「なんで、美潮の家にいるの…?」  腹が激しく痛むようだった。顔を引き攣らせ、見ていることしかできない俺もつらくなってしまう。 「部室で疲れて寝ていたと、1年から聞いた。起きる様子もなかったから俺の家に連れ帰った。それはそれとして、腹は大丈夫なのか」  礁太は何も返事をしなかった。背中を丸めて、蹲る。腹を押さえ身を縮める姿は痛々しかった。 「礁太?今トイレに連れて行く」 「違う、違う…そういうのじゃ、ないけど……」  俺は礁太を抱き上げようとしたが、礁太は嫌がった。小さく丸まって腹を摩り、喋るのもつらそうで俺は慌てふためいた。 「礁太…」 「ダイジョブ……ダイジョブ………」 「薬、飲むか?」 「ダイジョブ…」  自分に言い聞かせるような調子で礁太はそう呟いた。俺はリビングに降りた。そこに薬がある。父と母親はすでに夕食を済ませ、寛いでいた。帰宅した父に挨拶をして、母親に礼を言う。それから薬の在り処を訊ねた。だが逆に症状を根掘り葉掘り訊かれ、薬は渡されず、替わりに真空パックの袋に入った蒸しタオルを渡された。俺はまた自室に戻り、蹲る礁太に蒸しタオルを渡した。礁太は躊躇い、嫌がっている感じがあった。でもそのまま腹に当て、相変わらず丸まったままだった。 「美潮さ……エッチなこと、した?」 「いつ?」 「オレが寝てるとき」 「着替えさせる時に裸にはしたが、他意はなかった」  礁太は俺に背を向けた。俺の脳裏にはあの1年のテレビでよくみる男のアイドルみたいな顔が張り付いたままだった。ただ確証はなく、疑いの範疇に留まる。 「何かされたのか?誰かに…?」 「美潮に無理矢理されたときのお腹の痛さと同じなんだけど……」  ぼそぼそと礁太は喋った。もう怒りもなく呆れ、諦めたといった様子で、俺は礁太に見限られているのだと理解せざるを得なかった。 「痛かったのか、今まで…」  返事はなかった。小さな背中がさらに丸まって小さく見えた。礁太は何も言わず、蒸しタオルを入れた袋が鳴るだけだった。 「礁太。今まで、痛かったのか…?」  まだ答えてはくれなかった。それはそうだ。無理矢理抱いておいて答えを求めるのは卑怯という以外に何があるだろう。 「礁太………」 「オレのことスキとか言うけど、結局ヤれれば誰でもいいんでしょ」  抑揚のない嗄れた声で礁太は言った。責めるのも反発するのもやめたらしきその調子はただの思い込みや言い掛かりという類ではなく彼の中のひとつの事実らしかった。俺は横になり腹痛に耐える姿を見ていることしかできなかった。頭は真っ白だ。自分の過ちひとつひとつが蘇る。 「オレの乱暴された写真使ってエッチなことしてるんでしょ。あんなことしなくてもさせてあげるからああいうのやめてよ。バイトに響く。腰痛くしちゃってさ、いつもより全然ダメで、店長さんはお給料サービスしてくれたけど、そんなの悪いし」  途中から礁太は鼻を啜った。嗄れた声が(ひし)げる。 「何の話をしているんだ?礁太」 「とぼけないでよ。美潮が誰かに頼んだんじゃないの。オレがレイプされてる写真見て、愉しんでるんじゃないの?」 「俺が誰かに頼んだ?そんなわけないだろう!」  俺は礁太に近付いてその肩を掴んだ。腹を痛がっていることも忘れて。つくづく自分を自分本位な人間なのだと知る。礁太は腹に蒸しタオルを押さえたまま怯えた目をした。 「…悪い。そういう写真は確かに来た。でもお前をあんな手酷く乱暴したいだなんて思ったことはない。あんなふうに…」 「オレだって、最初はそう思ってたけどさ……」  礁太はすべて言わず腹を抱える。 「すべて捨てるつもりだ。二度と見たくない。礁太のあんな姿……」 「動画も消して」 「動画は来てない。写真だけだ」 「嘘だ」  胸の内を晒せるのならすべて晒してしまいたい。礁太の前に隠せるものなんか何もない。礁太への想いも届いてしまえばいい。 「本当だ。好きに見てくれ。物騒な動画は何もない」  俺はパスコードを解いたスマートフォンを礁太に差し出した。礁太は見ようともしなかった。 「写真は…?」 「今礁太の前で捨てる。ハサミで切り刻んで、二度と元に戻らないようにする」  ゴミ箱を引き寄せて、俺は礁太が乱暴されている姿の写る写真を裏返し、細かく刻んだ。 「変な紙がさ……ずっと来てた」  ゴミ箱に貼ったビニール製がぱらぱらと鳴った。礁太は寝返りをうち、まだ腹を抱えていたが俺のほうを向いた。 「靴とかスリッパにもさ、変なのかけられて……」  やはり俺の取りこぼしがあった。礁太の目に触れないよう処理していたつもりだった。 「美潮が誰かに頼んだんじゃないの?ホントに?」 「当たり前だろう」  たとえ乱暴されていても礁太が写っている写真を切り刻まなければならないのが悔しかった。紙片が舞いながら落ちていく。 「暁ちゃんのこと、じゃないの」 「大神?大神がどうかしたのか」  礁太は途切れ途切れに躊躇しながら自分の見解を述べ始める。要するに、礁太は大神に酷いことを言い、飛び降りさせるに至らしめ、そのことで恨みを買っているとのことだった。礁太は疲れている。様々なことが重なって。写真は小さくなっていく。まだ十何枚も残っている。裏面を上にしているとはいえ、不愉快だ。早く処理してしまいたい。出来るのならデータごと。犯人を突き止めて。 「そろそろ帰るね、オレ」  今手にしている写真がすべて紙切れになったと同時に礁太はさも当然のようにそう言った。まだ腹を押さえていたがベッドから起き上がり、寝間着を脱ぎ始める。 「泊まっていかないのか。もう遅い」 「ダメだよ。明日もバイトあるから」  いずれ持って行こうとして部屋の隅に置いていたシャツを拾い、礁太は着替え始める。他人(ひと)の家庭の事情だ。逼迫していることは知っている。食生活を切り詰めているほどだ。あれこれ口は出せない。でももう外は暗い。それに礁太は具合が悪いようだった。 「もう9時だぞ」 「でも帰らないと。4時出勤だからさ。この地区どの辺?学校(ガッコ)ってどっち?」  制服を身に纏いながら礁太は訊ねた。俺は何か受け入れ難い隔たりを強く感じ、唖然としていた。口は地区名を呟き、指は学校のある方角を差し示す。 「ありがと。お邪魔してごめん。また学校で」  礁太は結露している真空パックに入ったタオルを俺に差し出した。見送らせる間もなかった。扉脇に揃えたスクールバッグを掴んで、まだ腹痛は治まっていないようだったが下に降りて行ってしまう。玄関で何か言っているのが聞こえた。テーブルには冷めた食事が2つ並んでいる。俺の手の中には冷めたタオルが残っている。雑ながらも畳まれた俺の寝間着と、礁太の跡を作ったままのシーツ。

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