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第59話

-月-  (ひかり)の見舞いから帰る途中で見知った姿をみつけ、おれは後先考えず車を停め、声を掛けていた。あの子だ。あの子が蹲っている。こんな時間に。 「礁…?」  輝は入院していて、それを教え子のこの子は知っているはずだから、おれはこの子の前に今姿を見せてはいけなかった。しかし体調の悪そうなこの子を10時回っている暗い中に放っておけるはずがない。連れ去られてしまいそうだ。心配するふりをして声を掛ける悪い大人に。おれみたいな。 「ひかりせんせ…?なんで…?」  あの子はおれを怖がっていた。腹が痛いらしく、立ち上がれないようだった。どうしよう?何と説明しよう?おれは固まってしまった。打ち明けてしまおうか。すべて。 「ちょっと…そこを、通りかかって………」 「ひかりせんせ、良かった。無事だったんだ…」  しょうたはおれを見上げたまま控えめながらも無邪気に笑った。腹の奥底で何か爆ぜそうな気がした。久々のしょうたの声に眼球の裏側が捻じれるように痛む。 「ここで何をしているんだ?こんな時間に」 「友達の家に寄ったら遅くなっちゃって…」 「その友達の親御さんは何も言わなかったのか、こんな時間に帰すなんて……礁の親御さんだって心配するだろう」  しょうたはおれから顔を伏せた。触れてはいけない事柄なのだと察してしまう。複雑な家庭環境などこの時世に珍しいことではなかった。そもそもしょうたがうちに泊まりに来ていた頻度を(かんが)みればある程度察しがつく。軽率だった。 「ううん、向こうの人は泊まっていくように言ってくれたんだ。でも帰らなくちゃいけないから」  しょうたはおれに笑いかけ、よろめきながら立ち上がる。その表情や仕草からいって、おれたちの関係はリセットされたようなぎこちなさがあった。 「ひかりせんせ、じゃあね。無事でよかったです。早く学校で会いたいですけど、無理しないでください」 「送っていく。乗りなさい」 「でも……えっと、誰かに見られてたら…」  しょうたは辺りを見回した。この時間に誰が見ているというのだろう?おれも周りを見渡す。車の音は聞こえ、ここに来るまでにも通行人はいたが、しょうたが気にするようなことだろうか。それどころか、おれからすればこのまましょうたを置いていったら誘拐されてしまいそうで気が気でなくなる。 「この時間に会っておいて、ここで別れるほうが問題だ。それに体調が良くなさそうだから、乗っていきなさい。遠慮しないで」  しょうたは硬直していた。おれはしょうたに近付く。何故だか躊躇いが生まれた。しょうたはおれを怖がっている?それか輝のことを。 「わ、悪いです。大丈夫です、オレん()、もう少しだから…」 「礁…?」 「ごめん、なさいです……大丈夫、ホントに。気を遣わせて、ごめんなさいでした。ちょっと、休んでただけで」  逃げたいみたいだった。おれの前から。この場から。一歩一歩、おれの機嫌を窺いながら横に歩く。早く別れの言葉を待っているみたいだった。 「いけない。乗りなさい。礁、乗りなさい。送っていくから。こんな時間に1人で歩いていたら危ないだろう」  おれはしょうたの肩を掴んだ。おれがこの子を誘拐する悪い大人だったみたいだ。出来ることならこの子の家ではなく、おれの家に連れ帰ってしまいたい。そんなことを考える自分が嫌だ。けれど否定できず、おそらく何度も同じことを思うのだろう。 「でも、せんせ!あの、新寺せんせに悪いですから………」  しょうたの声は小さく消え入った。新寺といえば聞き覚えがある。そういえば、そんな友人がいた気がする。しょうたの言うその新寺先生は輝にとってどういう立ち位置なのだろう。輝の口から聞いたことはなかった。 「新寺先生に何故悪いと思う?」 「だって………ああ!そうですよね。せんせはオレのこと、仕事(せんせ)だから心配してくれてるだけですもんね!でも大丈夫です。緋野せんせ、ここからオレん()近いこと知ってるでしょ」  確かに送ったことがある。しかし近いとは思えない。およそ5km。昼間ならここまで心配する距離ではない。けれど夜だ。 「乗せていく。頼むから、おれを心配させないでくれ」  この子の顔が何故か引き攣る。胸がじわりと滲みるように痛い。 「せんせ……でも、」 「心配で心配で眠れそうにない。満足に風呂にも入れない。おれのために、送らせて欲しい」  目線を合わせて屈んだ。しょうたは少しだけ後退る。口付けたい。甘い舌を貪りたい。可愛い。いい大人として相応しくない感情が渦巻いた。 「じゃ…あ、お願いしま……すです」  おれは本当に子供にするみたいにこの子の手を引いた。助手席が怖くて、後部座に乗せてしまう。いつもそうだ。出来ることなら助手席に乗せて、このまま繁華街までドライブしたいところだった。この子はおれにとって清らか過ぎて、遠くて、重くて、尊い。この子の前ではおれは穢れて腐りきった悪い大人だ。 「横になっているといい。具合が悪いのだろう?タオルしかないが使ってくれ」  助手席のヘッドレストに掛けていた未使用のバスタオルを小さく座っているしょうたの腹に抱かせた。 「夕食はご馳走になったのか」 「……うん。えっと……オムライス!オムライス、食べさせてもらったですよ。チキンライスの、ケチャップでハートが描いてあって、ツナとグリーンピースが入ってたです。ふわふわしてて、美味しかったな」  さすがに何も食べさせないでこの時間に送り迎えもなしに未成年を放り出さないだろう。保護者の承認があっても11時から4時まで未成年を外に出歩かせるのは条例で禁止されている。それでもうすぐ11時になる。 「そうか。何か薬とか、必要なものは?」 「ないです。何も」  傷んだ髪が揺れたのが分かった。この子の家に向かって車を走らせる。しかしスーパーが見えて、おれは車を停めていた。 「トイレ借りるか?」 「大丈夫です」 「スポーツドリンクとか要るだろう?待っていられるな?勝手に出ていくなよ。エンジンかけておくから、おれが出たらここをロックするんだ」 「は、…い」  悪い大人がこの子を連れ去りそうでおれはスーパーの光が届く場所に停めた。タオルを抱き締めるしょうたが運転席のロックをかける。おれは適当にスポーツドリンクとゼリー、おにぎりをいくつか買った。あの子が人攫いに連れ去られていないか、1人で帰ってしまったのではないかと思いながら時間の割りにまだ混んでいるレジを待つ。大慌てで車に戻るとおれの杞憂でしかなく、しょうたは後部座席に座っておれを待っていた。窓ガラスを叩くとロックを解除してくれる。 「待たせてすまなかった。腹壊(くだ)してるなら水分は摂れ。残りは明日の朝にでも食べるといい」  ビニール袋をそのまま渡す。しかししょうたは受け取らない。 「あ、の……」 「トイレ借りるか?」 「違うです、けど………悪いですから…」 「ああ…そうだな。余計な世話だった」  おれはこの子を本当に何も出来ない子供で、目を離したら生きられないものだと思い込んでいたらしい。腹を下して動けなくなって腹が減っても喉が渇いても、何も出来ない生き物なのだと。 「出過ぎた真似をしてすまなかった。許して欲しい。礁は要らないと言っていたんだものな」  おれはビニール袋を下げて助手席に置いた。ビニールの高い音が妙に虚しかった。実際自転車があればすぐに買い物はいけるだろう。おれはこの子供を本当に手も足も動かせない嬰児なのだと思っていた。 「せんせ……」 「なんだ」  振り返るとしょうたは俯いたまま首を振った。呼んだだけらしい。呼ばれるだけでもおれは嬉しかった。 「車出すぞ」  彼は小さく頷いた。この子の家までもう少しだった。田畑に囲われひとつ舗装された道路が伸びているような閑静な住宅地に入り、鬱蒼とした地区が目的地だった。しょうたの住むアパートは見るからに古く、それは経年劣化だとか築年数の問題ではなかった。何かに取り憑かれているような不気味さがある。空気が淀んでいるん。住民にしょうたみたいな子がいたとしても。何か事故を起こしたらしい崩れたまま安定しているブロック塀や寂れたカーブミラーなどもここをさらに不気味にしていた。しょうたの家だというのに1人で帰したくなかった。 「前後を確認してから降りるんだ。危ないから…………また子供扱いしたな、すまない」  ライトを点ける。余計暗く感じた。後部座席でしょうたは静かに泣いていた。 「どうした礁。どこか痛むのか?トイレに行こう。シートのことは気にするな」  おれは驚いていた。しょうたに注意したことも守らず運転席を飛び出す。車の通りが無かったことを幸いだった。噎び泣いている可愛い子をおれは思わず抱き締めてしまう。便失禁してしまったのか。無理矢理連れ去るような真似をしたのはおれだ。この子のなら構わない。 「礁……?」 「せんせ……、ごめん。せっかく、スポドリ買ってきてくれたのに」  乱暴に目元を拭くものだからおれはその腕を掴んでしまった。しょうたの綺麗な角膜に傷が付いてしまいそうだ。玉のような肌も荒れる。 「気にしないでくれ。おれの押し付けがましい節介だっただけだ。礁が気にすることじゃない」  惹かれて惹かれてどうしようもない。おれはこの子を放せないかも知れない。この子に声をかけ誘拐し監禁するのはおれで、おれが恐れていた悪い大人はおれ自身に相違ない。硬い髪が指に触れる。汗の匂いと、しょうたの匂いと、誰かの家の花みたいな匂いが薫る。子供みたいだ。本当に子供だ。この子が夜にひとり、腹を壊しながらほっつき歩いていたのかと思うと凍り付くような思いがする。 「手切れ金みたいで、怖……く、て……」 「手切れ金?どうして」  背骨の浮いた背中を撫でる。薄い。痩せ過ぎだ。切なくなる。 「オレ………また緋野せんせの前うろちょろしてごめんなさいです。ごめんなさい。嫌いにならないで、嫌いにならないで………好きになってもらおうとしないか。ウザいことしない。新寺せんせとのこと応援する。嫌いにならないで、オレ良い子にするから……」  新寺。新寺姓はそう珍しくない。おれの知っているのは1人しかいないが、あの新寺ではないだろう。確かに何度か新寺という字面を見た気がする。輝の電話によく掛かってきていた。 「嫌いになるわけないだろう。良い子になんてならなくていい。礁は礁のままで」  オレンジ色のライトの中で離して見たしょうたの首にはいくつも虫刺されの痕があった。通り道は藪や垣根が多かった。虫がいたのだろう。 「虫刺されがあるな。痒くないのか?」  しょうたは首を手で押さえた。生憎虫刺されの薬は持っていなかった。虫に好かれない家系なのか虫刺されで困ったことがあまりない。反対にしょうたはよく刺されそうだ。活発な雰囲気が健康的なせいか。見た目はそうだが、実際抱き締めると心配になるくらいこの身体は薄い。血は足りているのだろうか。 「家に保冷剤はある?冷やすんだ。掻き毟ると悪化するから」  ライトが潤んだ大きな目に照っている。 「礁。もしこれが手切れ金ならもっと良いものにする。それにこれは手切れ金ではないし、おれが勝手に良かれと思って先走っただけだ。気にしなくていい」  本気で輝が新寺先生という人物と交際なり結婚なり妻帯なりするのなら、おれはこの子に真実を告げる。多少の歪曲を入れてもいい。この子が輝を好いてぼろぼろになるくらいなら。この子には輝が要る。おれが輝になって、輝を(おれ)にしてでも。けれど、そこまでの相手がいてどうして自殺など図るのだろう。新しい相手とのことを投げ出し、この子を傷付けて。輝に対する腹立たしさに自分で驚いてしまう。 「せんせ……」 「それを踏まえたうえで、もらってくれるか?」 「うん……」 「良かった」  しょうたは少し落ち着いた。おれは助手席からビニール袋を取って彼に渡す。 「部屋まで送る」  この子は小さく頷いた。3段ほどの急な階段があり、土地が少し高くなっていた。荒れた庭を囲うようにアパートが建っている。外灯は点滅している。洗濯機は外付けで、蓋には鈴が括り付けられていた。不愉快な妄想をしてしまう。 「この鈴は礁が付けたのか」 「うん。パンツとか靴下、盗まれちゃうことがあるから。だから学校のは手で洗うんだ」 「そうか。すごいな、礁は」  硬さのある髪を梳いて怒りを鎮める。この子の下着が何に使われるのか、悪い大人のおれは気付いてしまう。本当に困窮してこの子の下着を盗んで使っている?そんな涙ぐましく健全なほうに部類してしまうような話はこの世に無い。けれどそんな醜穢(しゅうわい)極まりない下卑たことを彼が知る必要はない。 「親御さんは」 「ずっと夜勤だから…居ない」 「そうか」  しょうたは玄関扉の前で振り向いた。 「せんせ、ありがとでした。せんせとまた話せてよかった。せんせが無事で。オレ、ワガママだから、それだけで良かったのに、泣いて困らせて、ごめんなさいでした。スポドリと、おにぎりも…」  力無く笑っている。体調は回復しているようだがまだ油断はできない。 「ワガママ言われた覚えはない。困った覚えもない。おれも話せて嬉しい。腹痛は風邪のひき始めかも知れない。ゆっくり休め」 「うん」  放したくない。あの子が暗い玄関の中に吸い込まれて、閉まる前に手を振った。あの子が可愛くて可愛くて仕方がない。欲しい。連れ去りたい。誘拐してしまいたい。あの子に愛される輝が羨ましい。家に帰すんじゃなかった。後悔が渦巻く。そんな度胸はないくせに。

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