64 / 69
第64話
-星-
大神に会いたいと思って、俺は延々と続く病院の廊下を歩いた。延々と続く。脚には鉛板が括り付けられ歩けている気がしない。筋肉も骨も皮膚もすべてが腐り襤褸切れになったみたいだ。曲がり角ばかりある暗い一本道をのそのそ歩いた。大神がこの先にいて、きっと俺に答えをくれるはずだった。何かしら。何かしらの。何かが頭を掴んでいるが後ろは振り向けなかった。気付けば口の中が覚えてる汚らしい感触とあの味が蘇る。俺の腹の上で跳ねる硬い身体に胃が潰れる。吐きそうだ。家には帰りたくない。大神が呼んでいる。俺は延々と廊下を歩いた。曲がり角の先は電気が点いているはずだった。しかし曲がっても曲がっても、真っ直ぐに廊下は伸びて、俺は電気の点いているそこに曲がっていく。大神が呼んでいる。俺を待っている気がした。俺が大神を待たせている。家には帰りたくない。吐きそうだった。口の中は精液の味がした。耳にはあのねとついた声と音が張り付く。少しだけ休みたい。少しだけ。腹が苦しい。口の中が気持ち悪い。肌にあれの汗が染み付いている気がする。薄気味悪い蠢きが股間に残っている。抉り取ってしまいたい。あれに好き勝手されるのはもう嫌だ。
機械の音の中に大神は寝ていた。ネットを被って、口には管が通されていた。テープが肌に貼り付いている。水色の寝間着が顔を青白く見せていた。首の固定器具が標準くらいあった大神の体格を華奢に見せる。心電図は穏やかに動いている。身体中に管が伸びていた。やっと会えた。だが大神は話せる状態ではなかった。大神は少しも動かない。心電図は動いている。
「大神…」
腐り切った脚が溶けて俺は大神の寝るベッドに縋り付いていた。
「大神……」
ベッドの上には包帯の巻かれた腕があった。板が挟まって硬くなっていた。
「大神、」
初めて口と身体を雁字搦めに固くきつく縛り付けていたことに気付く。
「大神……、家に、帰りたくない…」
包帯の塊が出た大神の指にはまだ爪を囲うように黒いものが付いていた。
「しょうたに会いたい」
大神の好きなやつのことをもっと聞いておけばよかった。ここで彼女の近況を話してやれたはずだった。
「もう、新寺と寝たくない…」
ずっとここに居たい。蚕の繭の中みたいだ。この病室が。大神は何も答えない。それでも俺は話している気になれた。
「大神…」
心電図が高い音をたてた。赤い直線が画面を流れていく。シーツが赤く染まり、大神の頭を覆っていたネットも、腕に巻かれていた包帯も赤く濡れている。
「大神…、帰りたくない」
俺と大神の間が伸びていく。大神は少しも動かない。寝たままだ。帰りたくない。精液の味がする。身体中を汚された。股間が変だ。大神、助けてくれ。帰りたくない。新寺と寝たくない。しょうたに会いたい。帰りたくない。帰りたくない。大神……大神、俺を助けてくれ。
-泉-
のっちは別れたばっかの元カレのコト気にしてぼくのことなんか見てもくれなくなった。のっち大正義 な縁 が今日はのっちの傍にいないで王子様のところにいる。ホントは好きだったとか?いや、カラダを。いくら感度が良いって言ったっていきなりケツでイけちゃうなんてよっぽど。だから開発されてたと思うんだけど。ケツ事情はよく知らないケドさ。ちゃんと突っ込める用にある女の子の穴だって初めてでイくって感度が本当にすごく良いとか、ぼくが上手すぎるとかじゃなきゃないはず。それをそもそも突っ込む用じゃないケツ使ってイってるんだから、それなりのスゴいコトやってるでしょ。考えたらムラムラしてきた。のっちを触る。のっちは縁と元カレのほうに気を取られてた。ぼくのコトも見て。
「のっち、縁のコト気になるん?」
「えっ」
付き合いたいって思う。いっぱいエッチなコトしたいケド、それよりも触ってたいと思う。すぐヤりたい、今ヤりたい、3秒で合体っていうよりかは、いっぱい時間使って触り合って、キスして、前戯して、それから挿れたいよね。
「付き合うんかな?あの2人。オレ、悪いコトしちゃった」
のっちは俯いちゃって、ぼくが守らないとなって思った。ぼくこういうのが面倒臭くて、趣味 じゃなくて、年下って眼中になかった。なんか可愛こぶってさ、守ってアピールされてるみたいで。でものっちはさ、のっちは…可愛いよな。純粋に、可愛い。ンでもぼく、がっつり性欲込みだからロリコンの言い分みたいできっちぃわ。
「じゃあぼく等も付き合えば丸く収まるんじゃないの」
半分冗談、半分願望。のっちの細 い肩抱き寄せた。シャンプーの匂いがする。またぼくの家のシャンプーの匂い嗅ぎたいな。今度はぼくと同じ匂いさせてさ。あの夜よりももっとキモチヨクなりたいし、もっとキモチヨクする。今度は、もっと楽しいことだけ考えてさ。
「どう?のっち」
「え?ああ、そうだ。武中がカノジョいないコト悩んでたからさ、オレ、泰ちゃんなら可愛い子紹介してくれるかもって言っちゃったんだ。カレシ募集中の子いたら紹介してあげてよ」
ぼくの腕の中でのっちはぼくの気持ちなんか知らないで無邪気にぼくを見上げてくる。目がホントに綺麗でビックリするんだけど。前から顔舐めてくる犬みたい。可愛い。ぼくは放せなくなってもっと強くハグしちゃう。
「へ~、薫哉 ちんがねぇ。ま、先輩 としての顔立ててやんねーとな。分かった。あの顔にあの性格じゃ多分モテるし、ま、すぐ見っかるでしょ」
ただあの良い子ちゃんぶった感じ、実はめちゃくちゃド変態とか性豪とかありそうなんだよな。足舐めがシュミとかさ。嘔吐 フェチとかさ。変態じゃないぼくの考える変態行為なんて高が知れてるケド。
「笛木ちゃんっていうか、この場合は美潮にかな。武中に笛木ちゃんのこと紹介しようと思って話しちゃったんだ。あとで謝る」
「縁に、薫哉 ん?合わないわな、そりゃ。やめとけ、やめとけ。ンで、謝る必要はないっしょ。話ややこしくなるし、そーゆーカノジョのヤバげな要素はカレシは知らんほーがイイもんなの」
とはいえのっちがぼくの腕の中でイったの、元カレは目の前で見てるワケだけどね。あれのコーフンったらヤバかった。今でもぼくのお気に入りのアレの肴 。あれだけの達成感は物理のテスト学年最高点取った時よりも突き抜けてた。
「そうなんだ」
お~、ぼくを尊敬 してくれてる目。サイッコーだね。可愛いから頭撫でちゃう。1回抱いただけで甘くなったもんだよ、ぼくも。あれは事故みたいなもので、のっちの弱みにつけ込んだだけだけど。でもヤれるチャンス逃す男 がいますか?ってハナシ。
「で、のっちは、ぼくと付き合う」
決まり、決まり。それがイイや。縁がその気なら。ンであの元カレもひでぇコトするよな。のっちはへらへらするだけ。と
「オレは…」
遠い目してた。緋野ティーが好きなんだっけ。いいよな、緋野ティーの代わりになりそうなのが近くにいて。雰囲気とかよく似てる。元カレのほうは教師にはならなそうだけど。こんな不特定多数の未成年 と関わる仕事、元カレさんは絶対嫌がるでしょ。うるさい保護者まで後ろに控えてんだから。それは元カレさん宅 のことか。噂じゃ親族総出で乗り込んでくるらしいじゃん。上級国民はやることが違ぇね。私立行っときゃ良かったのに。
「のっち、ぼくホンキだよ」
自転車 かっ飛ばして朝からちょっと汗かいた形跡ある匂いした。耳も可愛い。耳朶 食べたい。食べる。
可愛い。全部が可愛い。
「叶わない恋追っかけるのやめたら?ぼくなら手が届くし、傍に居られるし同い年だしさ。のっちのコト想ってられる。緋野ティーのコト、元カレより忘れさせてあげられる」
「…泰ちゃんは可愛い女の子と並んでるのが似合うと思うな」
躱されちゃう。ぼくホンキなのに。たまぁにぼくのおうち泊まってくれるだけで良いんだよ。じっくりじわじわじんわりじんわり、おアツい夜を一緒に過ごせればさ。その時は頭のおかしい強姦魔 のコトも、緋野ティーのコトも、元カレのコトも忘れて、ぼくのコトだけ考えてよ。ぼくの言葉ってそんな信用ならないかな。そりゃそうだ。今までのっちの前でどんだけ色んな猥談してきたと思ってんの。
「ありがと、泰ちゃん。でもオレ、もう大丈夫だから。美潮とはこれからもふつーにやっていくし。来年になったらさ、クラスも専科も変わるから、上手くいかなくても……」
元カレ、理数科目いきそうだもんな。そしたらぼく、同クラになる可能性あるんだな。で、多分のっちは文系科目取るから来年も別クラ。
「のっち~」
大きなキラキラした目がまだぼくを見上げてる。可愛い。チュウしたい。一瞬だけならバレない?チュウしたい。していい?隣 のクラスで、人目あるケド、チュウがしたい。する。ぼくはのっちにチュウした。誰も見てないっしょ。誰か見てたってどうでもいいしさ。縁はのっちの元カレとくっつくんだろ?のっちのコト、ぼくによこしなよ。
-漣-
どれほど大神の存在が俺と礁太を近付けていたのか知る。元々俺に礁太との接点なんかなくて、隣が大神で、礁太と仲が良かったから俺は礁太と関われていた。大神の居ない今、そもそも礁太と関わる機会なんてなかった。大神の席はまだ空いたまま。あれから何の話もない。あの日のことが話題に上がることもない。大神が落ちたというベランダの手摺りを俺はぼんやりと見つめていた。学校の敷地の奥に新興住宅地があってさらにその奥が工業地帯。白く県を囲う山の陰が見えた。暢気に外を眺める生活に戻る。それも悪くないと思えた。すぐ隣から聞こえたはしゃぎ声はもうない。宥める大神の声もない。
昼休みになって笛木が飛んでくる。用件は知っていた。礁太のことだ。礁太がまた誹謗中傷の被害に遭っている。笛木は俺の腕を掴んだ。礁太の手も小さいと思ったが、笛木の手はもっと小さい。礁太の手を掴んでは何度も壊れると思ったが、女の手はよく壊れないでいるものだ。
「ちょっと付き合って。弁当でも何でも持ってさ」
笛木の手には弁当の包みが握られていた。何か彼女に対して逆らえないようなものを俺は持ってしまっている。弱みを晒した。感情を晒した。本音を晒した。俺はショートブレッドの箱を持つ。笛木はそれを変な目で見た。食が細いとは言われたが、無理に食べて吐いても仕方がない。吐くにも体力を消耗する。
「どこに行くんだ」
「下駄箱見張んの。お外見てなきゃ飯食えな~いとか言うガラじゃないっしょ?」
玄関前は購買部で混んでいた。俺たちは酔狂みたいに玄関にある簀子の上で昼食を摂る羽目になる。周りの目がそれなりに刺さり、交友関係の広い笛木は俺にはしないような陽気な態度で応じていた。彼女の弁当はキャラクター弁当というやつで、まさか玄関の良い匂いとは言えないような匂いの中で食べることは想定されていないだろう。クオリティは高く、俺ももっと前から料理に慣れていれば、キャラクター弁当にして作って贈りたかったかった、だなんて過ぎた日のことを考えてしまう。購買部の騒がしさを背に栄養食を齧る。2本1袋が2つ入っている。
「嘘っしょ、美潮…」
「何が」
「胃袋、小指くらいしかないんじゃね」
俺がショートブレッド2本しか摂れないことに文句があるらしかった。これが嫌で人と飯を食いたくない。そもそも人に物を食らっている様を見られたくなかった。
「昼は食べたくない」
「ま、玄関飯だしね。これからは」
「勝手に決めるな」
「んじゃ、さっさと犯人捕まえよ」
キャラクターの耳が捻じ切られる。首を撥ねられ、目玉を剥がされていく。食べられる物でできていて、食べられることには適していない見た目は、礁太に必要なかった。妙な創意工夫なんぞ凝らさなくて良い。また過ぎた日のことを考えはじめている。
「あとさ、ショータ勘違いしてるよ」
「何を…」
「釣り合ってないって言ったんだって?あれ」
星形の白いものが適当に集められて口に運ばれていく。チーズだろう。星型に刳 り抜くキットがそういえば売っていた気がする。
「どう勘違いする…?」
「美潮が育ちの良い坊ちゃんだから、野生児みたいなショータと馴れ馴れしくしてるのが釣り合ってないって意味に捉えてたね、あの感じだと。言葉足らなすぎじゃね?頭良いなら良いなりにもっと考えろよ、相手の性分ってやつをさ」
俺は言われた意味が分からなくて頭を抱えた。言葉の意味は分かるが、俺たちの事情、俺が今まで言葉にしてきたことと噛み合わない。確かに無理矢理抱いたり迫ったりした。それが礁太に映っていたすべてで、礁太にみえた俺の本心なのか。
「ま、あーしは愉快だからこのままでもいいケド、ショータがちょっと傷付いてるのはムカつくかな。フォローはしておいたケド、効いてなかった」
うさぎのようなキャラクターの頭部が割られていった。笑顔が崩れ、ただの米の塊になる。
「ショータを傷付けるバカは美潮1人で十分っしょ」
礁太を傷付けるやつなんて1人だって居ていいはずがない。
「ニヒル決め込むんはまだ早いってワケ」
人影が真後ろで止まった。振り返ると礁太に言い寄っていたあの1年が立っていた。購買部はそろそろ撤収の時間だ。
「笛木先輩、こんにちは」
何かがぎこちなくて気持ち悪い。俺以外には人当たりの良い笛木も、妙な顔をした。
ともだちにシェアしよう!