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第66話
-星-
先生、と知った声より少し低い声が聞こえた。俺だと思った。振り返る。しょうたが立っていた。目線は俺とそう変わらず、肩幅が広くなり、顎や頬の骨がもっとはっきりして、髪は相変わらず傷んでいる。先生、と言ってもしかしたら俺よりも高くなっている目線で、俺のよく知っている笑みを浮かべた。白い歯が照っている。変わらない。俺の知っているしょうただ。逞しい腕が俺を抱いた。立場が変わっても構わない。しょうたが好きだ。まだ覚悟はできていないが、ゆっくり、少しずつ頼む。痛いのは苦手なんだ。だがしょうた、君となら無理してもいい。多少のこだわりだの、矜恃だのも捨てられる。
先生、としょうたは俺を抱き締めた。嬉しくて堪らなかった。見るからに大人のしょうたは、もう高校生ではないのかも知れない。教師と生徒の関係でないなら、俺たちを阻むものなんて何もない。俺はしょうたの腕の中に甘んじた。自らこの幸福を捨てるなど出来なかった。俺は一度しょうたを突き放した。もう突き放さない。そうする理由はどこにもない。報われない愛慕に焦がれることもない。しょうたを好きで居られる。しょうたに好いてもらえる。こんな喜びはなかった。大きくなった背中、太くなった腕に俺は安堵する。発育は止まってしまっていてもうそれ以上育たないものだと思っていた。小柄で華奢な彼を大切にしたいと思った。力が足りない、高さが足りないというのなら俺がすればいい。しょうたが出来ないことは俺がする。しょうたは俺の傍に居たらいい。もししょうたが一度でも俺を選んでくれるのなら、もうどんな理由を並べられても本当に手放せなくなる。それでもいいか。選んでくれ、俺を。選んでくれ。他の誰のことも選ばないでくれ。俺を捨てないで。俺を……
緋野先生、としょうたが俺を呼ぶ。俺は返事をしなかった。緋野姓なんてたくさんいる。俺を呼んで欲しい。しょうたが呼ぶ緋野姓の教師は俺くらいだと分かっていても。俺はしょうたの人生のほんの一部しか知らないから。
輝 先生、としょうたははっきりと俺を呼んだ。俺のことだ。しょうたの目には俺がいる。俺だけが。燈 でもなく。利発で穏やかで聡明で、誰からも好かれて優しい燈ではなくて。母も祖母も燈のほうが好きだった。母も祖母も叔母も、近所の女子大生も気の利く燈のほうが好きで、俺に手を焼いて、俺は燈から、母も祖母も叔母も近所の人たちを奪ってしまった。きっと父のことも。しょうたのことも…?
輝先生と何度も何度もしょうたが俺を呼ぶ。俺は輝だ。緋野輝だ。だのに返事をしてやれない。また俺が燈から母を奪ってしまう。祖母も奪ってしまう。何でも卒なくこなせる燈から、そんな気はないのに何でもかんでも奪ってしまう。
「しょうた」
しょうたの大きく綺麗な目は変わらずに俺を映す。吸い込まれそうだ。鏡みたいで、鏡みたいだが、俺ではないものが映っている気がした。
俺を先生と呼ぶ声がしょうたのものではなくなった。燈 さん。しょうたはそう言った。しょうたの声ではなかった。しょうたのはずだった。
『燈先輩…』
耳の奥まで粘つく声はしょうたのものではなかった。俺はしょうただと思っていたやつを離そうとした。しかし、俺を閉じ込める腕は動かない。俺の背に爪を立てる。皮が捲れ、肉を剥がされていくみたいだ。やめてくれ。俺を汚さないでくれ。俺で喜 ばないでくれ。もう寝たくなあ。しょうたと以外、もう二度と、誰とも。
俺の背中はずたずたに引き裂かれ、剥がれた肉を引き摺りながら長い病院の廊下を歩いた。俺の居る場所はもうひとつしかなかった。助けてくれ。慰めてくれ。守って。脚はまた腐って溶けた。腐汁を垂らしながら曲がり角を目指し、長い廊下を歩く。何となく分かっていた。大神はもう目覚めない。心電図は赤く直線を描き、耳鳴りによく似た音をはっきりと立てている。ずっとここに居るのがいい。しょうたに会えないのなら、俺は傷付くのも背負うのも、嫌だ。燈からもう何も奪いたくない。大神、ここに居よう。大神、俺もここに居る。どこにも行かない。ただ眠っていたい。
-雨-
ショータがレイプされてる写真をオレはどうしていいか分からなかった。美潮に話していいものか、どうか。美潮ってそういうの、疎そう。分かってなさそうっていうか、そういう概念が頭の中に無さそうっていうか、違う世界の事象のこととか思ってそうっていうか?ビラのことだって、ただショータを傷付ける材料くらいに思ってなさそう。美潮って勉強は出来るケド、バカっぽいし。頭も要領も良いんだろうけど、もっと、お利口 じゃない、みたいな。気が利かないっていうか、気が回らないっていうか、聡くない。心霊写真じゃないからお祓いするワケにもいかないし、こんなの、いくら薄汚いギトついた社会から身を洗ってるって言っても坊さんに見せられるかって話。オレが墓場まで持っていくのが良いんじゃないかって。だから強姦魔には死んでもらわないとならなくて、オレは毎日丑の刻参りする。本気。呪いで人殺すと警察は立件出来ないんだって。オレ、ショータを強姦したヤツがさっさと死なないかなって毎日祈るし、夜は毎日呪うよ。人を呪えば呪うだけ自分の墓の穴掘るんだって。いいよ、一緒に入ろう、ショータを強姦した犯人さん。オレと一緒に土の中で窒息しよう。殺してやる。ぶち殺してやる。ショータを1人にできなかったけど、どういう流れかショータにはチン毛野郎がずっとくっついているからオレは休み時間は玄関に張り込んだ。美潮引っ張って。変なクソつまらない噂たつのが厄介 すぎてオレと美潮は離れた。美潮は例の呼び出しをすっぽかして見張りに付き合ってくれた。ま、ショータの元カレでショータにまだ片想いしてるなら義務でしょ。絶対ゲロキモ精子入ってる弁当だのデザート食わしてたんだからこれくらいやっても釣りが返ってくるっつーの。美潮は生理 らなくて良かったわ、ホント。美潮が生理 ってたらショータに経血入りチョコケーキとか食わす気だっただろ。いや、生理 ってなくても意外と指とか首とか手首切ってさ……それでも経血じゃないだけマシだろ。だってあれ内臓だぜ。しかも要らん扱いの。それならまだ指切ってそこから搾った血のほうが……嫌 だわ。暫くジャムまともな目で見られないっつの。
「なんだ」
オレは美潮をじろじろ見てた。首切った痕は特に無し。指は英単語帳開いててよく見えない。手首もなんか腕捲りとかしないから見えない。ってか切ってても治ってる。白くて細くてインドアっぽいけど健康体みたいだし、すぐ治るよな、浅い切り傷なら。献血出来そうだね、止められそうだけど。献血するくらいならショータに食わせるデザートに入れるってか?キモ。ゲロキモ。クソキモ。
「何型?」
「何が」
「何型って訊いたらフツー血液型だろうがよ」
「……クワガタ」
美潮は取り合う気ないみたいでふざけたことを言ってから目を逸らした。何それ。
「あーしはO。ショータもOで、サトちゃんはABだったかな」
美潮は血液型占いとか信じるタイプ?信じないって言ってもさ、血液型占いだの星占いだの言ってる世の中に生きてりゃさ、刷り込まれちゃって完全には無視できなくね?
「O型同士のあーしとショータって相性バッチリだと思わない?なぁ、美潮は何型?」
「B」
「へぇ…」
「血液型占いなら俺も知っている。でも飽くまで男女の相性だろう」
美潮は全然興味無さそうだった。だって誰も来ないしフツーに暇。だから美潮は英単語帳をぱらっぱら捲って、本当に頭入ってんの?入ってるだろうね。入ってるだろうさ。
「仮に相性が最悪でも、諦められそうにない」
O型とB型の相性が悪くないの知ってて言ってるからムカつくよな。とかいっても美潮の言うとおり、O型とB型の男女の話で、人間はそんな8通りしかいないワケじゃなくて、この場合オレはO型の女体 で扱われるんだから、気に入らない話だよな。
「諦めたいの?」
「そうだな」
「諦めなよ。ショータに惚れたら底無し沼だから。諦めようだなんて」
自分でも何言ってるのか分からなくなった。諦めるのはムリだよって言いたかったんだけど。美潮は黙ったまままた英単語帳のページを捲った。本当に頭入ってんの?
「海老デンスは」
「証拠」
「おぽ、おぽタニティ」
「opportunity は機会」
オレのほう見ないし即答だしやっぱ美潮ってムカつくわ。オレはテキトーにやってそれなりの点取れればいいけどさ、美潮ン家 は教育厳しそうだからね。満点取らないと母親が包丁振り回すとか聞いたことあるけど。苦労してるね、美潮も。
「お!」
「今度はなんだ」
下駄箱にタケダ?タケウチ?タケヤマ?タケなんとかクンが来ていた。豆腐しか食べない茹で玉子王子みたい。美潮、キャラ被ってるんだから若くて穏和なあの子に負けるよ。
「どした~?ショータに用?」
茹で玉子王子みたいな子は振り返った。
「能登島先輩はどこにいらっしゃるのかなって思いまして」
この茹で玉子みたいな子ショータに懐き過ぎじゃね?怖。この前も部室でなんかバックハグしてたしさ。何こいつホモ?美潮とか寝取られお異母兄 ちゃんいるから別にホモでもな。オレの前で変態自慰 する新寺とかな。いや、オレ女体 だから新寺はモーホーじゃないか。
「教室覗いてみれば?」
「はい」
ふわって、ホイップクリームみたいに茹で玉子ホモ王子は笑った。ジャーマネなん?練習出てたよね?日焼けしないの?スキンケアが鬼とか?
「There is no evidence that he is innocent」
「なんて?」
美潮はおっさんみたいに膝を押して立ち上がる。
「例文にあった」
あ~、あ~あ~あ~。美潮って電波系だったりする?大量受信脳味噌ビガビガ気持ちイイよ~系のゆんゆん系のファンファン系?そりゃショータと反り合わないだろ。
「イメージでいい。笛木は犯人に、どんな印象を持っている?」
「え?う~ん、やり口がジメジメしてて気の強い女っぽいケド、男かな。ショータに、嫉妬してるような。たとえばチビとか…?」
美潮は教室棟のほうをずっと見てた。ショータをレイプしたってところを見ると、やっぱ女体 の力じゃどうなんだろう?ショータより強そうな女子がいないワケじゃないケド。
「美潮は?」
「男だと思う。主犯でないにせよ、男は関わってる」
思わせぶりなことを言って美潮は教室に戻ろうとする。
「美潮?」
「礁太はあのB組の奴と一緒だったか」
「多分」
確信的なことは何も言わない。でもそれはオレも。あのチン毛野郎とショータがずっと一緒に居るかどうかはオレには分からなかった。それでなんでか、オレはあのチン毛野郎の犯行じゃないことは確信してた。オレは美潮を追った。美潮はあのホモ茹で玉子を追ってるみたいだったけどたまたま目的地が同じなだけ。
「笛木ちゃん」
美潮の背中追ってぼーっと歩いているとショータが教室から飛び出してきた。
「能登島先輩」
忙しいわ。豆腐ホモ茹で玉子が不安げなカオしてオレを頼るショータにこの前みたいにバックハグする。オレはすたすた席に戻る美潮の情けない後姿を見てた。虚しいね、美潮。諦めるコトもう諦めろ。ショータは底無し沼だよ。墓場まで持っていきなよ。墓ン中で、ショータのいる地上がいいゾって寒い墓石の下で苦しむんだよ。オレはショータを傷付けた強姦魔と同じ墓に沈むしかないから、美潮、お前は孤独だよ。
「ショータ、どうしたん?」
ショータはデカい犬みたいな不気味なホモ豆腐美少年を気にしてオレと喋るどころじゃない。正直異常。多分おそらく絶対メイビー98% ゲロキモ生ゴミ精子入りチョコケーキ無理矢理食わせようとして発狂してた美潮ほどじゃないけど。
「あ…うん。えっと、武中、ジャマ…」
耳舐めようとしたり首に顔突っ込もうとしてるホモ豆腐美少年をショータは嫌がった。
「モなんとかは?一緒じゃないの?」
「居るよ」
オレは教室覗いた。チン毛野郎は菓子食ってこっち見てた。オレに手を振る。他の男子とくっちゃべってた。で、振り返るとショータwithお豆腐ホモ1年 。飼い主好き過ぎる犬か?
「笛木先輩」
なんか馴れ馴れしかった。オレの直接の後輩みたいだった。直接の後輩で、この1年をもっとよく知ってたら可愛いのかも知れないけど、生憎オレには薄気味悪い、カオの綺麗さがもっと薄気味悪く感じる。
「能登島先輩借りていいですか」
「ダメ」
「借ります。来てください。僕と遊んでくださいよ、能登島先輩」
「タケウチくんは部活で会うじゃん」
ニコッて笑ってホントに怖い。アイドルにでもなれば。ホストとか。この人、そういうの向いてるよ。
「笛木先輩は朝から帰りまで一緒でしょう」
なんかこの1年に馴れ馴れしく呼ばれるの気に入らないな。なんかちょっと睨み合うみたいになった。なのに1年は呑気に笑ってる。美潮ヤバいよこれ。美潮抜かされるよ。だってアイドルだよ、生まれつきの。ミステリアスだし。要するに薄気味悪くて。
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