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第8話 おうちに帰ろう。

 大学にカズが迎えに来てた。初めてのことだった。  一緒に駅へ向かって、何にも言わずにそのまま家のほうへと向かう電車に乗った。  駅を降りて、普段はバスを使ってるんだけど、今日は歩いた。  うちから駅までは歩いて二十分くらい。  緑地指定地区っていうのがあって、うちの前にも、うちだけじゃなく、ずらっと並んでる一軒家の前に細長い散歩道のようにその緑地が繋がっている。途中に滑り台があったり、ジャングルジム、砂場、遊具があったり、花壇が綺麗なところとか、夏場にはコンクリートの隙間から点々と噴水が上がる場所もある。ヨチヨチ歩きの赤ちゃんとか、小学生がそこで水遊びをしたりもしてた。  俺もカズと一緒にその水場へ行ってびしょ濡れになってたっけ。  ――ナオ兄ちゃん!  頬を真っ赤にして、汗で髪が濡れるくらいに息を切らして、一生懸命についてくるカズにあわせてゆっくり走ってた。他の同級生は待ってられないだろうから、先に行っていいよって。  俺はカズと一緒に行くからって。 「ここ、懐かしくね? よく一緒に水遊びしてた」  二人で行こうとカズの手を繋いであげると嬉しそうに笑ってた。 「……うん」  けれど、内心、一番嬉しかったのは、きっと俺だった。この気持ちはいつから生まれたんだろう。 「もう剣道の朝稽古やってんだな。まだ、大会終わったばっかだから、しないと思ってた」 「…………いなくて、寂しかった?」  この想いはいつからこんなに絡みつくような質感になったんだろう。 「別に……」 「ナオ、嘘下手じゃん。朝、真っ赤になられたら、我慢できなさそうだからてんっていうのもあるけど」  手を繋いで水遊びをしていた頃は弟だった。でも、友だちよりも、両親よりも、最優先はずっとカズだった。  いつから弟を、弟じゃなく男みたいに見るようになったんだろう。 「襲いかかる前に稽古で雑念を振り払っておいた……っていうのもある」 「な、なんだそれ。っていうか、お前、今までずっと女の子たくさん引っ張り込んで来てたじゃん。俺に、その、そういう相手をさせなくたって困らないだろ。別に、女の子がさ、お前の相手なら皆大歓迎なんじゃないの?」  四月でも夕方になると風が少しだけ涼しくなる。昼間、日によってはすごい暑いこともあるけど、日が傾いた途端に風が変わる。 「ズリぃ……言うなっつったの、ナオじゃん」 「!」 「けど、聞きたいんだ? 俺が女の子引っ張り込んでた理由」 「そ、そりゃ、だってっ」  店には入らなかった。  話したいこととかたくさんあるけど、店で誰かが隣にいたら話せないことをたくさん含んでいるから。  男同士、兄弟。相手は高校生。  最初の一つ目は別にいいけど、残りの二つはタブーだから。 「決まってるでしょ。ずっと抱きたいと思ってた人がいたけど、無理やりはダメだろ。抱いたら、きっと泣かれるし、傷つけるって思ってたし」 「……」 「最初はムカついた」  四月頭、まだ、桜はぽつりぽつりと花がしぶとく居残って咲いている。けれど、やっぱり風が吹くとヒラリと散ってしまう。小さい頃はこの桜の花びらで草笛とかしたこともあった。ちっとも上手くできないとカズは何度も何度も、桜の花びらを拾っては口付けて。  今、それと同じ木から散って舞い落ちる花びらを眺めるカズの横顔は、草笛ができなくて膨れっ面になって、ぷぅと丸くなったりしない。  ドキッとするくらい――。 「シコってんの、女の声に興奮してるからだと思ってたから」 「おまっ」 「フツー、そう思うじゃん。ナオが帰って来た時間帯を選んでしてたんだ。隣にナオがいるってことをオカズにしてさ。あー、今頃、この子をズリネタにしてんのかなって思いながら、ムカつくけど、でも、っていう倒錯感満載」 「……」 「けど、ふと気が付いたんだ。ナオは嘘つくの下手だから」  裸になって前を歩くと目を伏せてしまうから? 明らかに視線を反らして、そっぽを向いてしまうけれど、嫌悪はなさそうに見えたから? そして、耳は真っ赤になっていたのを気付かれてしまった、とか?  俺は、嘘下手なの? 「で、この前、廊下に出た時にちょうどナオが俺の名前を呼んだのが聞こえた。最高だった。一瞬で舞い上がって天国にいるみたいに嬉しくて」  まさに有頂天だったと、ヒラリヒラリと舞う淡い桜の花びらの中で目を細めた。 「しかもその翌日、父さんも母さんもいないってわかってたからさ」  最高でしょ? なんて笑ってる。 「鍵パクって、帰って来れないようにして、そんで連絡を待ってた。けど、ちっとも帰って来なくて。玄関先で待ってた」 「は? 鍵パクってって、お前、俺が忘れてたって言った」 「当たり前じゃん。普通言わないだろ? 鍵なら俺が盗んだよ、なんて。けど、いっこうに帰って来ないから迎えに行ったら酔っ払ってるし、女くせぇし、マジで、はぁぁぁ? ってなったっつうの」  そういえば、少し不機嫌だったっけ。 「襲うって決めた日に女にかっさらわれたのかと、マジでへこむとこだった」 「襲うって、何言って」  あの日、カズの手はすごく冷たかった。夜になれば四月だって、グンと冷え込む。俺は気がつかなかったけれど、あんなに冷えた手をしてた理由がさ。俺が帰ってくるのを待ってたなんて。 「ホント、めちゃくちゃ嬉しかったんだ」 「お、女の匂いさせてって、そんなんお前のほうがいっつもさせてんだろっ」  だから、嫌いなんだ。あの甘い匂いも、甘ったるい声も、大嫌い。どうにもならない、行き場のない嫉妬心にいつも突付かれてた。 「女にかっさらわれたら、とか、そんな、俺がいっつも……」 「……ズルくね?」 「は? 何がっ」 「おにーちゃんだからってさ、ナオは俺のこと、そんな好き好きビーム出しておいて、俺はダメとか」 「っ」  だって、ダメだろ。カズは大事な――。 「でも、ヤキモチめちゃくちゃ嬉しいからいいけど。ね、ナオ、身体痛くない?」  水遊びのできる噴水のあるここはうちからどのくらいの距離だったっけ。もう最近はここを歩いてないから、距離感がつかめない。子どもの頃はすごく遠く感じたけれど。 「俺、有頂天すぎて、何回もしたから、軟膏、中に塗っておいたけどさ」 「は? お前がそんなことしなくていいって!」 「いや、意識飛ばしてる間に俺色々悪戯したから」 「は、はぁ?」 「右の乳首のほうが感度良いのは右利きだから? キスマ多かったでしょ? 寝てる間に悪戯してた」 「はぁ? おま、マジで、バカじゃねぇのっ」  遠く感じたけれど、遠くて良いと思ったんだ。  ――ナオ兄ちゃん!  カズと歩いていられるから。手を繋いでいられるから。 「バカだよ。ナオが意識飛ぶくらいに抱き潰したんだから」 「っ」 「反省の意味込めて朝稽古めっちゃしたし」 「……痛く、ないよ。その、なんか、中に感覚残ってたりは、するけど、でも、痛くない。その、ほら」  バカは俺だ。 「いっつも、指で、その、してたから」  ダメってわかってんのに、思いっきり浮かれてる。 「なっ、なんでそこで笑うんだよ!」 「いや、だって、ナオ、めちゃくちゃスケベだなって思って」 「んなっ!」  兄なのに、弟が笑った顔に胸が高鳴って。  兄なのに、その笑顔の色気に、身体がトロリと蕩けそうになるなんて。 「痛くなかったんならよかった。一日、そのことばっか考えてたから」  兄なのに、一日、弟としたセックスのことばかり考えてた。 「ぼ、煩悩消すために朝稽古したんじゃなかったっけ?」 「あはは」 「笑って誤魔化すなよ」  この細長い公園を小さい頃は少し面倒にも感じたんだ。カズが好きな滑り台があるのは一番奥で、遠かったから。でも、その分長く歩けるから嬉しくもあって。 「ねぇ、ナオ、俺さ、ここの公園、すげぇ好きだったんだ」 「……」 「滑り台、別に普通の滑り台だったけど、あそこ、一番遠かったじゃん? ナオはいっつも一緒に行ってくれるから」  独り占めできるだろ? 友だちはゆっくりなんて歩きたくない。早く行ってたくさん遊びたいから。だから、いつも二人だった。  二人きりでよかった。 「は? 好きじゃなかったのかよ」 「だって普通の滑り台じゃん。反対側のさ道をちょっといけば小さい公園だってあるし」 「はぁ?」  そうだった。カズはこういうのをしれっと涼しげな顔でやり過ごすんだ。 「案外水遊び場からうちって近いんだ。知ってた? ナオ」  子どもの足では遠かったのか。それとも二人でゆっくりのんびり歩いてたのか。とても遠かったと思っていた水遊びのできる噴水はけっこう近かった。  その距離の短さを恨めしく思うくらいに、まだこうして二人でゆっくり歩いていたい。 「知らなかった。もっと遠いと思ってた」  あの子どもの頃よりもずっと早く歩けるはずの俺たちなのに、ゆっくりのんびり歩きすぎて、日はもう暮れていた。  日が暮れた公園なんて誰もいなくて。みんなそれぞれのうちへ帰ってしまう。だから――。 「もう、うちに着いた……」  誰にも見えないから、少しだけ手を握った。指先をぎゅっと握ると、この前と違って、カズの指先はとても熱っぽく火照っていた。

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