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第17話 恋の歌
今日ってたしか、ビジネス英語のレポート提出期限だったはず。それから世界経済論の資料、どこだっけ。次の講義用にネットで見つけたんだけど、あれって、USBに落としたよな。それから……あとはもう大丈夫、かな。
「……やば、バスの時間」
朝、身支度を整え、階段を駆け下りた。
「母さん! 行って来ます!」
玄関でそう大きな声で言うと、リビングのほうから「いってらっしゃい」と母さんが返事をした。靴を履いて、鞄を肩に下げ、鍵を――。
「……」
一つ目のグリーンモンスターのキーホルダーが、鍵かけのところにぶら下がっている。俺の鍵のとこ。
「めちゃくちゃ微笑んでんな」
「! カズ」
「はよ。かーさん! 俺、今日帰り早いから! 行って来ます」
カズの声に、母さんが俺の時と同じ用に返事をした。
「行かないの? ナオ。バスだろ?」
「! あ、うん!」
カズの後を慌てて追いかける。きっと、もうその肩のところの、今は制服で隠れてる噛み痕は消えてる。たぶん。見てはいないけど。
ちょっと、タイミングが悪くて、ここのところ、してないから。
「ナオ?」
抱いてもらってないから。
後ろを歩く俺に振り返った拍子、風がふわりとカズの前髪を揺らした。目を細め、爽やかに笑うその横顔に見惚れて、足が玄関先の石畳に突っかかった。
「っと、っぶね」
「……」
「たまに少し天然だよな。ナオは」
よろけて、転びそうになって、それを片手で抱きとめられた。
「気をつけてよ」
「ご、ごめっ」
「バス、乗り遅れるよ? ナオ」
本当に、軽々と片手で抱きとめるなんて、まるで、男だ。
「ナオ?」
覗き込まれそうになって慌てて顔を伏せて先を急ぐようにカズの横をすり抜ける。ドキドキ、する。その腕の強さをもう知ってるから。そしてじわりとした足の爪先できゅっと地面を蹴り上げるように歩を速めた。
「あ、それ」
バスの中、二人で並んで立っていたら、カズの高校用の鞄についたポケットから一つ目のグリーンモンスターがブランブランと揺れていた。
「それ、別のとこにつけたんだな。音楽聴くやつにつけてんの?」
「そ。鍵につけられないじゃん? ナオがそこにつけてるし」
たしかに、同じキーホルダーを鍵にくっつけて玄関先にブラ下げたら、母さんたちの目に留まってしまう。
さすがに、変、だろ。子どもの頃ならまだしも、この歳になって兄弟でお揃いのキーホルダーとか。
「これならいっつも持ち歩いてるから」
「……」
カズの大きな手の中にすっぽり収まるミュージックプレイヤー。俺はあんまり音楽とか常に聞いたりするほうじゃなくて。だから、そういうのは持っていない。
ボタンもほとんどないそれをどう操作するのかもわかってないくて、つい覗き込んでしまうと、カズが笑った。俺がポカンとしてたのかもしれない。
「ナオ、こういうの疎いもんね」
「いいだろ。別に。いつも何聴いてんの?」
「別に、色々かな。とくに、これ、みたいなのはないよ。ただ、おっと……」
バスがクラリと揺れて、つり革を握るカズの手がぎゅっと力を込める。手首の内側の腱がピーンと張って、それが力強くて、男っぽかった。
「ただ、音楽聴いてたら、周りがうるさくないじゃん」
「……」
「それだけ」
この手に、俺は――。
「聴いてみる? 今、聴いてるのはわりと気に入ってるんだ」
ワイヤレスのイヤホンの片方を俺の耳にカズの指が押し込む。もう一つは自分の耳へ。メタリックな深紅のイヤホンは耳に収まるとアクセサリーのように見えた。英語のアナウンスが聞こえて、そして音楽が聴こえてきた。
「綺麗な赤色」
「あぁ、これなら鞄ン中に落っことしてもすぐに見つかるじゃん」
聴いたことのない歌だったけれど、少し掠れた男性の声で、恋の歌をうたっている。
『ありふれてる時間の中で、ただ貴方を好きになっただけなのに、貴方を見つめていただけでよかったはずなのに、触れてしまったら、明日なんていらないと思うほどに、ただ――』
そんな熱烈な恋の歌。
「……」
この恋の歌を聴いてるのは俺たちだけ。揺れるバスの中、月曜日の少し眠たげな乗客たちには聞こえない。ここにいるのに、俺たちだけが切り取られたように感じられた。
つり革に掴まる自分の腕に頭を預け、俺を見つめて笑ったカズと、見つめられて、胸が躍る俺だけが別みたい。
赤色から聴こえる恋の歌で区切られたみたいだった。二人っきりみたいだった。
――それじゃあね、大学頑張って。
同じ制服を着てたはずなのに、なんでだろう。カズが着てるとさ。
「びよーん……」
指で押すと目玉が飛び出て、もろもろカイショー、なんちゃって。
「あー、それ、新キャラのだー」
「……」
びっくりした。講室の長テーブルにつっぷして、もろもろカイショーしてくれないかとそれを押してたら、目の前に女子が座って、高らかな声で話しかけてきた。
この前の新入生会の時の一人、だと思う。
「かっわいー。押すと飛び出るの?」
「あ、うん」
返事をしながら、鍵を鞄の中にそっとしまった。押して欲しくない、って思ったんだ。だから手を伸ばされる前にそっと隠してしまった。
「えー、行って来たの? いいなぁ。楽しそー。デート? とか?」
「え? 何、何? デート、なの?」
「……司」
お前さ、だから、学科違うじゃん。
「バカ、何? 司」
「あー、デート? まさかの? すっごい淡白な直紀が?」
「もういいから」
高校どころか中学の頃の俺のことも知ってるからさ。怪訝な顔でそのことを掻き消すと、能天気な奴だから、はいはいとそれ以上はほじくろうとはしないでいてくれる。正直、そういう性格でいてくれるの助かるんだ。だからこそ、一番長い付き合いでいられるんだろう。
「そんで? 何?」
「あ、そうそう、あのさ、直紀、バイトしねぇ?」
「…………え?」
司がぴょこっと飛び跳ねた。
「バイト!」
そう言って、また跳ねた。
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