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第21話 それぞれの時間

「ッブ! げほっ! ごほっ」 「んもー、なんだよ、直紀」 「ご、ごめっ」  向かいに座って学食を食べていた司が怪訝な顔をしながらも、俺のコップを目の前に差し出してくれる。 「ったく、珍しくスマホに齧りついてたかと思ったら、急にむせたりして」 「ごめん」  じーっと細められ鋭くなった視線から逃れるように、食べかけのコロッケを平らげた。  ――場所、本当にどこでもいいの?  ――いいよ。ナオと行くんなら、どこだって。  ――良さそうなとこ、三つくらい見つけたんだけど、チェックアウトは十時でいい?  ――やだ。遅いほうがいい。  ――りょーかい。風呂はさ、個室露天風呂とかなくてもいいよな。ちょっと割高になるし。  ――いーけど。キスマ、めっちゃ見られるよ?  ここで俺が噴き出したんだ。連休の間にぽこっと挟まった二日の平日。電車の中は少し空いていたから、会社とかは休みっていうこともあるんだろうけど、学生は規則正しくカレンダーどおりに学校がある。俺も、カズも。  昼休み、カズもは教室なのか、トイレなのか、廊下なのか。どっかでこのやり取りをしてるんだろう。  キスマ、とか、高校三年生が言うなよ。  しれっとしてるんだろうか。  それとも、慌てふためく俺を想像して満足そうに笑ってるんだろうか。  表情はわからないけど、俺が返信をまだしないでいるこの数分を楽しんでるとは思う。  キスマ、つけなきゃいいじゃん。  っていうか、キスマが付くってことは、肌にキスをするようなことをするわけで。そう思ってはいたけど、なんかさ。 「バイトどうだった? 明弘さんとこ」  なんか、そわそわしてしまう。 「あ、うん。昨日一日、バイトさせてもらった」 「そっか」 「ありがと。紹介してくれて」  無精髭に高級マンションっていうのは、なかなかのミスマッチなんだけど。でも、バイトの時給も破格だし、それに英語の勉強にもなるからありがたかった。あまり得意じゃないんだ。ビジネス英語って、慣れてないっていうか。だから、ああやって半ば強制的に苦手意識の強いビジネスのかっちりした英語に触れられるのは助かる。 「勉強になるよ」 「そっか。けど、なんか、お前さ、最近少し変わったよな」 「俺?」 「まぁ、そのスマホしかり」  そう呟いて司が俺のスマホを指差す。  普段は本当にスマホをそんなにいじらないほうなんだ。だからこうして昼休みも、それから朝も宿探しに忙しくスマホを握り締めているなんて、とても珍しい。 「バイトとかもさ」 「それは……」 「親父さんが、とかじゃなくて、なんか、行動的っていうか」 「……」 「まぁ、いいと思う。ずっとお前ってどこか思いきりがないっつうか、周りを伺うとこがあっただろ?」  それをとても意識したこと、っていうのはなかったけれど。 「今のほうが、なんか楽しそうだよ」 「……」  楽しそう、だなんて言われるとちょっと胸のところがこそばゆかった。 「あ、でも! 彼女ができたら教えろよ!」 「っぷ、はいはい」 「マジで」 「無理だと思うよ。お前が一番知ってんじゃん。俺がそういうの淡白だっていうの」  胸の内で嘘の一片がひらりと落っこちた。  淡白なもんか。 「まぁなぁ」  指折り数えて、旅行の日を楽しみにしてるんだから。チェックアウトを遅くして、部屋食にして、二人っきりで宿の一室に篭もろうとして、そして、抱いてもらおうと思ってるんだから。  淡白どころか、旺盛なんだ。 「あ、それでさ、司、明弘さんって」  一日、カズに触れてもらおうと目論んでるんだから。 「えー、コーヒー詰め合わせなんてよかったのにー。しかも、ここ、俺の好きなコーヒーんとこのだ」 「……」 「よく、ここのコーヒーが俺のお気に入りって知ってたな。って、そっか、司か」 「……」 「ほら、上がって上がって。まずは、そしたらいただいたばかりのこれでコーヒー休憩するか。って、直紀?」 「あ、あの」  コーヒーは司にどんなのが喜ぶか訊いたんだ。何がいいかなって。予算と共に。母さんにそんな破格で、しかも大学のこととかも考慮してもらえるなんて、御礼の一つでも持って行くようにと言われた。  だから大学の後、コーヒー豆を買って、それから来たんだけど。 「あの……」  来たんだけど。 「……どちら様ですか?」 「っぷ、あははははははっ! 俺だよ、俺。明弘」 「いや、それは……」  わかってるんだけど、そう訊きたくなるくらいにまるで別人だったんだ。ただ髭がないだけなんだろうけど、まるで別人みたいになってるから。 「男前だろ?」 「はぁ」 「アハハ。普通そこは上手にかわすんだよ。今日、午前中に大事な打ち合わせをここでしたから」  それで髭が……。そっか。けど、髭ってそんなすぐに伸びるのかな。けっこうもじゃもじゃしてたけど。 「ギャップ萌え、してもらえたかな?」 「あの、そういうの普通は女子が」 「へぇ、常識人みたいなことを言うんだな」 「?」 「そういえば、直紀は髭とかあんま生えなさそうだ」  髭を珍しがってるからと、剃りたててで違和感があるんだろう顎を自分の長い指で撫でた。 「さて、そしたら、いただいたコーヒーでも煎れようか。飲むだろ? 直紀も」 「あ、はい。でも、俺、今来たばっかりだし」 「いいだろ。タイムカードがあるわけじゃないんだ」 「あ、そしたら、俺、コーヒー入れます」  まるで学校のように思わず手を挙げたら、明弘さんが目を細めて笑った。 「ありがとう」  そんな明弘さんが高い棚から客用のコーヒーカップを取り出してくれるのを眺めながら、俺の身長を追い抜かしたカズのことを思った。あいつも大人になったら、こんなふうに背が高くなるのかな。髭とか生えるのかな。 「……」 「……? あの、明弘さん、マグカップを」 「あぁ、悪い」  カズが大人になったら――。  その姿を想像しながら、淹れてもらったほろ苦いコーヒーを口にした。

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