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第22話 兄弟ケンカ

 通訳の仕事をしているから、言語を扱い仕事をしている人だから、なのかな。明弘さんは話し方や言葉の使い方が柔らかい人だと思った。そして、運転の仕方も柔らかい人だった。 「駅まででいいんだっけ? もう翻訳の仕事慣れてきた?」 「はい。駅まで送ってもらえて助かります。仕事は、全然。すみません。俺、今日ミスを」 「大丈夫、っていうか助かってるから心配すんな」  この短期バイトも残り一日となった。最初こそ、英語まみれになるだけで体力を根こそぎ持っていかれるような気がしたけれど、この段階まで来るとそれにも慣れてきた。そんで慣れてきたせいもあって、今日は小さなミスをいくつかしてしまった。おかげで帰りが大幅に遅れそうだ。 「なんだったら、大学卒業後の就職先、うちにすれば?」 「え、いえいえ!」  慌てて、そんなって手を振った。けっこうミス多いでしょ。そう役に立ててるとは思えない。そして能力給として考えるとお高い気がする時給もさ。 「あ、着いたぞ。今日はお疲れ」 「すみません。駅まで送っていただいてしまって」 「いや、別についでだから。それより本当にいいの? 最寄り駅で」 「あ、はい。駅前で買い物があるので」  本当はこの人は、たぶん用事なんてないんじゃないかと思った。あまり髪をセットしたり、髭を剃るのもそうだけれど、好きじゃないんだろう。日中、何人か、お客さんと打ち合わせをしていた時はビシッと整えていた髪を夕方、溜め息混じりにネクタイを緩めたと同時。手でくしゃくしゃに崩していたから。  だから、もうこの後、用事なんてないんじゃないかと思うんだ。けれど、仕事の終わり時間が遅くなったからこうして送ってくれたんじゃないかって。 「ありがとうございます」 「いや、こっちこそ、色々助かった」  歳が俺より大分上なのもあるけれど、大人だ、とも思った。こうして移動手段が車なのも、今は剃ってなくなったけれど顎髭も、あと少し乱暴な口調になるところも。自分の父親が真面目で厳しい人だからか、全く違っていて不思議な感じがする。 「また、明日も宜しく」 「……はい」 「それじゃ」  目が合う度に明弘さんは笑ってた。  そんなに髭ナシだと珍しいか? って、苦笑い混じりに訊かれたけれど、別にシャープな顎のラインが物珍しくて眺めていたわけじゃない。  笑った時の雰囲気だけじゃなくて、その少し乱暴な口調になるところも似てるって思ったからだ。打ち合わせに来ていた人との打ち解け方とかが、なんというか、するりと人の懐に入る感じがカズに似てるって。  だから、この人は次男坊なのかなぁって、ぼんやり考えながら、手を振って、再び走り出す明弘さんの車を眺めながら思っていた。 「…………なんか、仲良しじゃん」 「! カズっ」  いきなり声をかけられて飛び上がると、その驚き方にも眉間の皺が深くなった。 「ふーん、駅まで送ってもらったんだ」 「なんか用事があったらしくて、そのついでに」  どうだか、って言いたそうな顔。 「そいつのとこからの最寄じゃなくて。うちの最寄り駅まで乗せてくれんの? 好待遇じゃね?」 「あのな。別にちゃんとバイトしてたよ」 「俺、何も訊いてないけど」 「なんだよ。ご機嫌斜め?」 「そういうガキ扱いみたいな言い方すんな」  それはいらない苛立ちだ。 「なんにもないし、あるわけないだろ」 「そう思ってんのはナオだけかも」 「あのな、普通、男相手にそんな心配したって大体無駄だ。しかも、俺みたいなのを。カズこそ過剰に反応しすぎ。ないから。ないのにそんな態度で言われても」 「ナオはわかってないんだよ!」  何に苛立ってんだか。 「全然、わかってないんだ」  苦しそうにそれだけ言うと、本当に子どもみたいにその場を早歩きで行ってしまった。 「……ったく」  ちっとも小さくなんてなれていないけれど、それでも丸まった背中は不貞腐れていますと言いふらしているようだった。  結局、その日は先に家へ辿り着いたカズが自室に篭もったせいで静かに終わってしまった。  ったく。  一日英語まみれでヘトヘトだったのに。 「……はよ、母さん」 「あら、おはよ」 「……カズ、まだ寝てんの?」 「今日は、剣道の稽古がある日よ」 「……ぁ」  忘れてた。今日って火曜だっけ。 「そっ……か」  連休だけど、剣道の稽古は夏休みも何も関係なくあったっけ。 「朝から、ダルそうな顔して出てったわ、それなのに、通しで稽古するとか言って、なんなんだか。直紀は今日もアルバイト?」 「ぁ、うん」 「今日、お母さん、夜、ママさんたちで晩御飯してくるからね」 「あ、うん。父さんは?」 「今日は日勤だけど、どうかしらね。忙しそうだったから」 「……ふー……ん」  通しで稽古。剣道場の稽古は午前午後に分かれてる。あまり一日使うってことはしないんだ。大会の直前とかくらいで。あとは午後にしたり、午前にしたり。午前だともう定年退職したおじいちゃんたちが多い。午後だと子どもを中心に習い事って感じの稽古。  今の時期は大会なんてないから、その通しで稽古をすることは珍しい。  まだ、不貞腐れてるんだ。  っていうかさ、そんなに引っ張る内容じゃないだろ。二人の旅行代金が主な理由でバイトしてるんだから、そんなに怒ること?  ガキ扱いするなって言ったくせに、ガキみたいなことをして怒って。  今日、母さん帰り遅いの、知ってるのかな。カズは――。  バイトに行く前に薬局に寄った。そこで棚に手を伸ばした途端、たぶん、向こうの棚のところから聞こえた声に手が止まった。 「はぁ、あんた、まだ和紀のこと追っかけてんの?」 「いいじゃん別に」  今、和紀って。 「まさか、今から呼び出すとか?」 「そ。今日、ケンドーなんだって。さっき、駅でさ、捕まえたんだけど」 「逃げられてんじゃん。つか、それで、待ってる間の時間潰しに私使われんの?」 「いーじゃん。おごる」 「つーか、そんなに和紀推しだったっけ?」  丸聞こえだ。同じ名前の人の話かとも思ったけど、でも、ケンドーって、言ったから、たぶん、カズのことだ。 「んー、なんかさぁ、急になんか、キャラ変わったんだよねぇ」 「ふーん」 「前はさ、退屈そうにしてたのに。なんか最近、ご機嫌だし。テンションやたらと高い感じで」 「え、キモ」 「は? キモくない。可愛いんだって。さっきもさぁ」  思わず、聞き耳を立ててしまった。彼女たちの会話に。 「なんか、すっごい不機嫌な感じでさぁ。睨むんだもーん。可愛くない?」 「え、可愛くない」 「彼女とか作んなかったじゃん? あれ、絶対に彼女いる」 「じゃあ、それこそもう意味ねーじゃん」 「喧嘩したんでしょ? チャンスじゃん。仲直りした? 手伝ってあげようか? っつったらさぁ」  手を止めて、耳を傾けてしまう。 「一瞬、仲直りの方法訊きたそうな顔して、でも、うるせぇよって怒ってんの! 可愛くない?」 「はぁ……あんたの趣味、わけわかんない」 「可愛かったんだもーん。そんでさ、そんでっ」  どの子、だろう。この前、うちの駅のとこまで追いかけてきた子だろうか。あの時の会話は聞こえてなかったし、声なんてそうそう覚えきれるものじゃないからわからないけれど。でも――。 「っ、ったく」  彼女が話していたカズは俺の知らないカズだけれど。そのことにヤキモチをするよりも早く。 「……なに、それ」  彼女が話すカズを想像しただけで、その場にしゃがみこんでしまった俺は、しばらくそこにじっと蹲ったままの不審者だった。けれど、動けないくらいに、彼女たちがワイワイと騒ぐ俺の知らないカズに、どうしょうもなくくすぐったくなってしまった。

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