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第25話 グリーンピース一粒

 俺が先に家を出た。  行ってらっしゃい、気をつけて、そう母さんに言われた。  カズは少し遅れて家を出た。 「ナオ!」 「……」  待ち合わせたのは大きな大きな駅。手を離したら迷子になってしまいそうな人がたくさん行き交う駅にした。 「っぷ、何、その眼鏡」 「い、一応変装しとこうかなって」 「その髪型も?」 「へ、変?」  眼鏡をして、いつもはあまりアレンジしない髪をワックス駆使してちょっと変えてみたんだ。雑誌買って、部屋ですごい練習してた。 「いや、なんか、エロい」 「は? エロって、お前っ」 「似合ってる。眼鏡がとくに…………エロい」 「はぁ? だから、何その、エロいって」 「でも、俺もサングラス持ってきた」  人の努力をけしからん単語一つで片付けたカズが笑って、ポケットから取り出したサングラスをかけた。高校生のくせにサングラスが見事に似合うってどうなんだ。 「お忍びデートっぽくね? って、本当にお忍びなんだけど」  眼鏡にヘアーアレンジ。それからサングラス。 「行こっか」 「……」 「平気だよ。誰も見てない」 「いや、けど……って、カズ」 「迷子防止」  そう笑って、カズが俺の手をきゅっとしっかり握り、あっちこっちと行き交う人の波の中に二人で一緒に飛び込んだ。  家族旅行は俺が中学二年生だった時が最後。三年ではもう行かなかった。受験があるから留守番してるって俺が言ったら、それなら……と行かなくなった。  本当は受験とかじゃなくて、カズと一緒の部屋で寝泊りとかさ、するのはちょっと怖かったから。隣で寝てるのとか、意識してしまうに決ってる。だって中学生で、思春期で、そういうの真っ只中だったから。  旅行はいつも電車だった。  その電車の中で食べるお弁当は格別な気がした。好きなお弁当を買いなさいって駅弁がずらりと並んだ売店で言われたけれど、俺は家でも食べられるオムライス弁当を選んだ。よく覚えてる。普段から食べてるはずなのに、電車の中で食べる特別に美味しかった。  カズも同じオムライス弁当。  でも、実は俺はグリンピースがちょっと苦手でさ。好き嫌いは父さんが怒るから、一粒くらいなら我慢して食べてしまおうと思ったんだ。そしたらカズが――。 『ナオ兄ちゃん! グリーンピースちょうだい!』  そう言って、俺のを食べてくれた。スプーンですくって自分のオムライスの上に乗っけて、やった! 一粒多くなったって。  笑ってくれたのを覚えてる。  五月の連休も、海も、秋でも冬でも、旅行は基本電車。俺はいつも廊下側。カズが窓側。交代する? と訊かれても、決して席は替えなかった。 『うわぁ、ナオ兄ちゃん! すごいすごい! 海が見えてきた!』 『ホントだ』 『すごいよ、ナオ兄ちゃん!』 『うん……すごいね』  言いながら、俺は海なんてちっとも見てなかった。海を真っ直ぐ見つめるカズのキラキラ光る瞳ばっかり見つめてた。  綺麗だなぁって見てたんだ。  だから、席は替えなかった。 「……海が見えてきた、ナオ」 「あ、うん」  窓際に座っていたカズが建物の隙間から一瞬だけ見える海を指差した。けれど、電車はあっという間に移動してしまうから、もう指差した先に海は見えずじまい。 「ほら」  今度は少し開けた場所で数秒間、水面がキラキラ眩しく光るのが見えた。 「ナオって、海好きなんだ」 「え?」 「温泉、俺、山のほうかと思ってたから」  海が見える旅館にしたんだ。新幹線とかだと高いから急行でいけそうなあまり遠くなくて、安めで、それで、部屋ごとに小さくてもかまわないから露天風呂がついてるところ。  五月じゃ海には入れないけど。 「……あれ、ウケた。弁当さ、今でもオムライスの売ってんのな」 「あぁうん。懐かしかった。けど、なんかもっと色々美味しそうな弁当あったね。知らなかった」  焼肉のとかさ、海鮮だってめちゃくちゃ美味しそうだった。子どもの頃から大好物だったものがてんこ盛りになってる弁当がたくさんあったのに、俺は好きだけれどでも家でも食べられるオムライスを選んでたなんて、ちょっともったいない。 「俺、覚えてるよ。最初の時さ、なんか電車の時間の都合とかでめっちゃ弁当選ぶの急かされたんだ」 「そうだっけ?」 「うん。そんで、ナオが慌てて、適当にオムライスを選んでた」 「え? マジで?」 「うん。けど、その次の時もオムライス食ってたっけ」  それは、カズがグリーンピースが好きだったから。美味しいって言ってたから。またグリーンピースをあげたら喜んでくれるかなって。 「グリンピース、今日はちゃんと食べたんだ?」 「あ、うん」  覚えてたんだ。  もう覚えてないと思った。子どもだったから、その一粒でも喜ばれるのが嬉しかったけれど、この歳になって、それはちょっと恥ずかしいだろ。好物だからってあげるにはただの一粒は、さ。 「もらえるかと思った。残念」 「っえ!」 「冗談だよ。二人で一緒にまた食べられて嬉しかった」 「……」  オムライスが大好きだから毎年それにしてたわけじゃない。別に他の弁当だってかまわない。けれど、オムライスにしたら喜ぶから。カズが喜ぶから、その次の年からはずっとオムライスばかりを選んでた。 「けど、口移しで一粒もらえるかもって、ワクワクしてたり、したかも」 「は? 何言っ……」  ふわりと触れたカズの唇。 「グリーンピースの一粒、あげるって言ってくれたら、口移しでちょうだいって言おうと思ったのに」  大型連休後でガラガラに空いた席、向かい合わせになっているタイプのシートだけれど、誰もいないから、小さなキス一つくらいであれば誰も気が付かない。 「も、もう、してるだろ……」  口移しなんてことを言わなくてももうキスしてるじゃないか。 「たしかに」  どきりとした。  海が好きだからこっちを旅行に選んだわけじゃない。海を目にした時のカズの瞳を見たかったから。キラキラと光る水面がその瞳に反射してて、見惚れてた。それをまたもう一回見たかったから、ここにした。  けれど、あの時、海の光を全部掻き集めて閉じ込めたかのように綺麗な瞳はそこにはなかった。  合ったのは、濡れた瞳と、その中に映る自分。 「けど、めちゃくちゃ苦手だったじゃん。グリーンピース」 「そう、だけど。食べられないってほどじゃなかったし、それに」  もう味なんてわからなかったから食べちゃったよ。  俺がいつも廊下側の席を陣取ってたのは、ここからなら見つめてても大丈夫だから。カズのこと見つめてたって、そんなに違和感がないからだった。  ここから風景を、海を見るふりをして盗み見てた。いつからなんだろう。可愛い大事な弟、ただそれだけなら見つめてたって問題なんてないはずなのに、いつからか、見つめてはいけないって分かっていながら見つめてた。  あの時、海ばかりを見ていた瞳が、海に反射する陽の光ばかりを映していた瞳が、今、俺だけを見つめてる。  それは、なんだか夢見心地でさ。だからグリーンピースの味なんてしなかった。だから食べることができちゃったよ。

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