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第44話 道草

 家から剣道場は歩いて十分と少し、俺が剣道やってた頃はあんまり一緒に帰らなかったっけ。カズはコンビニに行くって言うから、俺は先に一人で帰ることが多くて。でも、そのほうがよかったから、いいんだけど。話すこともあんまりなかったし。  ごくたまに一緒に帰ることもあったけれど、やっぱり会話はほとんどなかった。あったとしても、ぽつりぽつりと言葉が互いの口から落っこちるようにいくつか話すだけ。並んで歩くこともなかったし。  窒息しそうな苦しさを覚えてる。  気持ちに蓋をするのに、ぎゅうぎゅうと締め付けすぎて呼吸することすら忘れるような、息苦しさを。  でももっとずっと子どもの頃は一緒に歩いて帰ってた。剣道の話をしたり、その前の日に見たアニメの話をしたり、学校のことだったり、色々、なんか話してて、なんか楽しくて、家に辿り着くのがすごく遅くて。 「母さんが迎えに来たことあったっけ。俺と、ナオの帰りが遅いっつって」  まだ、カズは大事な大事な弟だった頃のこと。 「……うん」  何を話してたのかは覚えていないけれど、あの時のカズの笑顔は覚えてる。 「もう怒られることはないだろ」 「え?」 「あれ、夏みかんの、買いに行こうぜ」 「……」 「寄り道」  肩を竦めて、くしゃって、いつもは涼しげな目元をくしゃっとさせて、たまらなく楽しそうに笑うんだ。  たまらなく、嬉しそうに笑ってたんだ。今みたいに、あの日も笑ってた。  二人であの公園のベンチに座って道草することにした。ここからずっと家のところまで続いている長細い公園の一角。  水遊びもできる噴水のところから少し離れた場所。街灯も乏しくて、あまり目立たないベンチを選んだ。 「お疲れ」 「ありがと」  途中のコンビニで買ったばかりの夏みかんとレモンピールのジュースを手渡す。蓋を開けた瞬間、レモンの爽やかな香りが鼻先を掠めた。  飲む時、カズがゴクリ、ゴクリと喉仏を上下させるのがとても色っぽくてつい目で追いかけてしまう。じっと見つめてしまう。声が低いから? 自分にもあるはずのそれがなぜかとても艶めいて見えて、齧り付きたいくらい。 「これ、マジで、うっま」 「そんなに気に入った?」 「美味くね?」 「まぁね」  炭酸系苦手だからね。俺も、カズも。夏だからっていうのもあるのか飲料水のペットボトルコーナーに並んでるのは炭酸ばかり。あとは少しぼやけた味のレモン水。ちょうどいい甘さで、ちょうどいいレモンの皮の苦さ。 「なら、もう一本買えばよかったのに」 「デブになる」 「ならないだろ。カズ、筋肉すごいじゃん」 「……」  自分で言って、自分で照れた。  筋肉すごいじゃんって、ナチュラルに言っちゃったけど、それはカズの裸を見たことがあるからこそ言えることで、もちろん俺は見たことが何度もあって。  そう何度もあるんだ。  何度も、抱かれたから。 「ちょ、ちょうだい、夏みかんの」  照れ隠しに夏みかんのを飲むと、レモンピールの風味が口の中に広がった。 「あ、りがと」 「助手、引き受けると思わなかった」 「え? なんで?」 「だって、島のこと苦手じゃん。ナオは」 「ぶっ、げほっ」  ダイレクトに言うから思わずむせちゃったじゃん。そう睨んでもカズは楽しそうに笑ってる。 「苦手だろ?」 「……島、じゃなくて、島さん」 「島さん、苦手だろ?」 「……」 「大丈夫だよ。気が付いてるのなんて、ナオのことをよく見てる俺くらいだから」 「……」 「ね、なんで、引き受けたの?」  理由? そんなの、言うのもはずかしいほど幼稚で、了見の狭い理由だから、あまり言いたくないんだよ。 「ぁ、あの子、最近入ったの?」 「誰?」 「あの子だよ。肌の白い、黒髪の」 「あぁ」  剣道をやってるって言ってた。マネージャーじゃなかった。 「最近入ったんだ。なんか、親の転勤とかで夏にこっちに越してきてって……言ってた気がする。あんま興味ないから聞いてない」  カズは興味がないことには視線すらも向けないところがあるけどさ。でも、向こうはそうじゃないかもしれないだろ? カズにしてみたら大勢の女子の一人だとしても。 「……ふーん」  甘くて苦いジュースの味が喉奥に残ってる。 「……ねぇ、ナオ、もしかしてそれが理由で引き受けたの?」 「だ、だって! 綺麗な子だったし、なんか妙に話しかけてきたし、それにっ」  今まで、カズがうちに連れ込んでたローファーの子たちとは違ってたから。 「やば……」 「っな、何が」 「今のナオの顔、めちゃくちゃ可愛かった」 「は、はぁぁ?」 「ね、ジュースちょうだい」  仕方がないだろ。だって、あの子たしかに綺麗だったじゃん。剣道ができるとは思えないほど華奢だったし。  わからないだろ。男なんだから。あんな大きな黒い瞳が涙を浮かべて迫ってきたら。 「ほら、って、やっぱ一本ずつ買えばよかった」 「いいんだよ。これが」  カズが受け取って、そのペットボトルをもう片方の手に移すと、俺の手を握った。手を握って、器用に長い指を使い片手で蓋を開けると全部飲み干してしまった。 「関節キス」 「……」  そして、カズが笑った。  肩を竦めて、涼しげな目元をくしゃっとさせて、またたまらなく楽しそうに笑った。  さすがにこの歳になったら、遅く帰ろうが怒られることはないだろうと思ってた。 「はぁぁぁ? 急に剣道をもう一回やる、だぁぁぁ?」  遅く帰ったことは怒られなかったけれど、突然、再開された剣道稽古の話をして、道着ってもう捨てちゃった? って尋ねたことをしこたま、怒られた。

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