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第45話 ぽつりぽつりと

 翻訳事務所の手伝い、明弘さんのところのバイトと掛け持ちすることになった。  剣道の助手を短期だけれどやることになったと話したら、剣道強かったんだってなって、髭なしの爽やかな笑顔を向けられた。大学に通いながら週何日か、数時間の手伝いだったから、全然かまわないよって。じゃあ、今度はその大会を見学にでも行こうかななんて言い出したから、丁寧にお断りをしておいた。 「へぇ、すごいな。道着も何もかも一式まだ取っておいてたんだ」 「あー、あはは」  母にはかなり怒られたけれど。  安いものじゃないから捨てずに取っておいてくれたんだ。まだ、カズは剣道を続けていたし、俺も丁寧に扱っていたから傷みはあまりなかったようで、  バーベキュー用具とかが押し込められている納屋にしまわれていた。それを天日干しにして、道着ももう一度クリーニングに出しておいた。 「いやぁ、やっぱり剣豪和久井兄弟、道着姿がさまになってるねぇ」 「あの、島さん、その剣豪和久井ってなんですか?」 「剣豪和久井兄弟! 去年、君が引退するまで付いてた異名だよ!」  そんな異名知らねぇし。  つい、口調がカズよりになっちゃったじゃん。 「引退って……そんな大そうな」 「あーはっはっは」  どこにも、何一つとして笑いどころのない笑いを道場の天井高くに向けて放つ島さんの隣で、小さく苦笑いがどうしても零れてしまう。 「わっ! あ、あのっ」  あの子、本当に剣道やるんだ。あの細腕で。  この前の白い子が髪をポニーテールに結び、道場にひょっこりと顔を出した。道着が白色だから肌の白さが際立っていた。走ってきたのか、真っ白な頬を赤く染めて、小さく薄い唇から乱れた呼吸を零して。 「あ! 宜しくお願いしますっ」  忘れていたと、元から大きな瞳を更に大きくさせて、ぺこりと頭を下げたら、ポニーテールが大きく弧を描いて振りかぶってた。 「……っす」  その後ろから次に顔を出したのは、カズだった。 「ひゃっ! あ、和紀さん」 「……どーも」  後ろから聞こえた低い声に飛び上がった彼女に、カズがちらりと視線を投げる。涼しげな目元、そっけない態度、それにすらりとしていてバランスの取れた身体に、道着を着ていてもわかる筋肉。  イチコロだろ。女子なんてさ。 「さて、そしたら、まずはストレッチからー!」  だって、俺だってイチコロなんだから。  稽古の中でメンをつけての練習はメニューの後半までない。前半は基礎練習ばかりになる。ストレッチ、足の筋力アップのランニング、ステップ、素振りが入ってくるのはその後。 「ペアになってストレッチー!」  今って、ペアでやるんだ。島さん、スキンシップとか好きだからかな。って、ペアってさ、カズは誰と。 「カズ!」  基本、同性でペアになるだろうけど、つい、カズの隣にくっついてしまった。  カズは少しだけ目を見開いて、でもすぐにくしゃりと笑っていた。俺は慌ててしまった自分が気恥ずかしくて、その笑顔に俯いた。 「はーい、開脚―!」  島さんの掛け声と一緒にストレッチをこなしていく。ペアになった相手が背中を押してくれるんだけど。 「カズ、身体柔らかい」  足を大きく開いて、そのまま上体をぺたりと床にくっつけてる。しなやかな身体にしなやかな筋肉、長い手足、力もある。運動神経抜群。きっとカズはどんなスポーツだって卒なくこなすんだろう。 「そう?」 「はーい、次―! 交代してー」 「ナオのほうが柔らかいよ」  足を、大きく。 「大きく開けるでしょ」 「っ」 「はーい、ぎりぎりまでガンバレー! あと十秒」 「足……」 「っ……」 「九」  ぞくって、しそうになる。背中にカズの掌の熱がじんわり伝わって。大きな手が背中を。 「はーち、まだまだいけるぞー」  ぐっと圧し掛かる重さ。 「ごーお」  それに――。 「……ナオ」 「っ!」 「さーん」 「足、もっと開いて」 「っ」 「はい、オッケー!」  もう、バカ。 「はい、次―!」  悪戯がすぎるんだ。ただのストレッチで甘い声で囁くとかさ。しかも、言ってる言葉が、本当に、もう……。 「開脚、横―!」 「いっ…………」  だから、お仕置きを兼ねて全体重をかけてカズの脇ストレッチに貢献しておいた。 「いいいいいいいいい!」  らしからぬ呻き声を上げたカズに、俺たちのことをよく知っている島さんが、また剣豪和久井兄弟! って指差しで真面目にやりなさいと注意をされてしまった。 「「お疲れ様でした!」」  一斉にハツラツとした声が道場に響き渡る。  練習は基本、上級者は島さんで、俺が子どもの練習に付き合う感じになった。本当はカズのいる上級者のほうがよかったけど、俺は指導したことがないから、手加減できないだろって。  思いきり打ち込まれたら、ほとんど打ち負かして終わってしまう。 「和紀クン、手合わせお願いできるかい?」 「いっすよ」  でも上級者の指導をするとしても、あんまりカズにはかまってもらえなさそうだ。ずっとカズは手合わせを頼まれてる。  それに――。 「いやぁ、やっぱり強いなぁ」 「いえ、そんなことないです。そしたら、失礼します。俺も島さんに手合わせ頼みたいので」 「あぁごめんごめん」 「失礼します。島さん」  ほら、俺には島って呼び捨てしてたのに、ちゃんとその人の前では礼儀正しく島さんって呼んで手合わせを願ってるからさ。  朗らかな笑顔で、柔らかい物腰で、さ。ホント、上手なんだ――。 「一回くらい手合わせ、俺としたってよかったじゃん」  そうぽつりと呟いたのは、帰り道、不貞腐れな仏頂面をするのも疲れた頃。 「ずっと、島さんとばっか」 「そりゃ」  そりゃ、向こうのほうが強いだろうけど。 「ストレッチで仕返ししたから怒ってんの?」  あの後からだった。ずっとそっけなかったんだ。すり足の稽古も素振りも、メン打ちの基礎練習も全部、なんだかそっけなかった。  まるで、ぽつりぽつりとしか話さない稽古の帰り道の時みたい。 「……たから」 「? 何、なんか言った?」  ごくたまに一緒に帰ることもあったけれど、やっぱり会話はほとんどなくて、並んで歩くこともなかった。 「ナオの近く行くと、ムラムラしてたまんなかったから」  仏頂面のまま、ぽつりぽつりと口から落っこちるような言葉。昔の帰り道と同じそれらが今、また二人の間にあるのに。 「だから、避けてたんだ」  見せてくれた表情は真っ赤で、くすぐったくなるほどこそばゆいものだった。

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