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第46話 とおせんぼ
――ナオの近く行くと、ムラムラしてたまんなかったから。
「だから避けられてたんじゃなかったですっけ」
不貞腐れてへの字に曲がった口からぽろりと胸の内の言葉が零れ落ちた。
「竹刀は肩から振ることを意識して。そしたら姿勢も自然と良くなる」
「は、はい!」
可愛い女の子の高い声が元気ハツラツに返事をしたのが道場の竹刀同士がぶつかる音の中で凛と響いた。
はいっ!
だって。
カズって上級クラスだろ?
その子、初心者ばかりの初級クラスでしょ?
カズって、今度、夏の大会あるんじゃなかったですっけ? それが最後になる大事な大会じゃなかったですっけ? そんな大会の直前に超初心者のその子の指導なんてしてる暇あるんですっけ?
「じゃあ、もう一回。あと、すり足も意識して」
素振りの振り方から懇切丁寧に教えてあげてるけど、ふーん、へぇー、ふぅぅぅん。
「はいっ」
そしてまた響く可愛いお返事に、眉間の皺が多少深くなってしまった。
あの子、どこの学校だっけ? カズの二つ下、高校に入ったばかりだって島さんが言っていたけど。
「あ、あの、直紀先生は、その、剣道はもうやらないんですか?」
可愛いお返事をする可愛い彼女が俺に近づいてきた。真っ黒で大きな瞳をぱちくりとさせて、長い睫毛がバサバサと音を立てそう。長い黒髪は汗で濡れてしっとりとしてて。
「あ……あの……」
「もう引退したんだ」
「そ、そうなのですか」
なんだろうこの子。
俺が高校生だった頃、人ひとつ下のカズとの接点に俺を使いたいって女子が数人いた。ちょっとだけ話しかけて、受け答えを何度かすると、今だといわんばかりにカズのことを話題にしようとする。
弟が一つ下の学年にいるんだよね?
剣道で二人とも強いって訊いたことあるよ。
もしくは、もっとダイレクトにイケメンだよね、今度ダブルデートしようよ、とか。
そう俺経由でカズとの接点を持とうとする女子はけっこういた。
紹介するわけないのに。
接点になんてなってやるわけがないのに。
会わせてなんてあげないのに。
笑顔でとおせんぼをするだけなのに。
「そう、もう剣道はしないよ」
「でも、あの、も、もったいない気が、」
「ねぇ、ナオ」
カズのとこになんて、通してあげない。なのに、そのカズが寄ってきてしまったから、慌ててその場を離れた。そして、俺に何か用事があったんだろうカズがつられるように、彼女のところを離れてくれて、これで、とおせんぼはどうにかこうにか成功だ。
「何? カズ」
でも、こっちは、それはそれで怒ってるんだ。いや、怒るようなことはないのかもしれないけど、でも、やっぱりイヤで、さっきまでしていた仏頂面のへの字口に戻ってしまう。
「何? 何か…………なんで笑ってんの? カズ」
「いや、わかってないんだなぁって思って」
「は? 何が?」
「いや、いいよ。なんでもない」
「何がっ?」
「だからなんでもない」
笑いながら、手をヒラヒラ振って上級者コースの一団の中へと入っていってしまった。
「…………って、何の用があったんだよ」
ねぇ、ナオって、言って呼んだの、カズ、じゃん。そう思ってぽつんとしていると、島さんが大会が近くなってきたこともあり、練習最後にパターン稽古をすると大きな声で集合をかけていた。
「ねぇ、ナオ?」
稽古が終わり、道場の玄関口が大混雑だった。ただ全員が出て行くってだけでなく道具一式を持っているから混在は余計にすごいことになる。
それが緩和するのを待っていたら、カズがミントタブレットを振って見せた。
「はい、手」
実は、あんまり得意じゃないんだ。これ。でも、差し出されると、なんというか気軽に断るのとかあまり上手くできなくて。そういうのを気軽に気さくにできるのも一つの才能というか、長所だなぁって思う。
「あ、りがと」
「どーいたしまして」
こういう男はモテるだろうなぁって、思う。
「ナオってさ、器用だよね」
「は? どこが?」
「ナオってスニーカーの紐、ほどけないじゃん? あれ、どうやってんだろーって思ってて。俺はよく解けるからさ」
「それは……お前、靴の紐、不精するだろ」
少し緩めに結んで脱ぎ履きがしやすいようにしてるから、そのうちにズレちゃうんだと思う。そう答えると真面目だと笑っている。
「前にどうしてほどけないのかって訊いたらさ」
――あぁ、結んであげる。
そう言って、カズのスニーカーの紐を結んであげたことがある。友だちに学校で教わったんだ。ボーイスカウトをやっていた友だちに、と話したらしい。俺はそのことをちっとも覚えていないけれど。
「その友だち誰だよって思った。それと」
「?」
「紐を結ぶ指先も、できあがった結び目も、なんもかんも綺麗だって、思った」
「……」
「あ、そろそろ帰ろうぜ」
どんな指先をしてただろう。子どもの短く拙い指先でしかないと俺は思うけれど。
カズにはどんな指先に見えたんだろう。
「あ、あのっ! お疲れ様ですっ」
見送ってくれたのはあの彼女だった。一日練習してもボサボサになることのない艶のある黒髪を跳ねさせながら、ぴょんとお辞儀をした。
「お疲れ様……」
もうカズは隣にいるからとおせんぼはしてないけれど、でも、多少は声が意地悪だったかもしれない。
それでもいいや。いつものことだし。そう思ったのを見透かすようにカズが少し笑っている。
「……何?」
「いや、ねぇ、ナオ? ミント、いる?」
「あー、ありがと」
ほら、やっぱり断り方が下手くそになりそうで、結局もらってしまうんだ。掌でカシャカシャと音がして白い粒がポトリと落っこちる。
「もう一粒いる? 口ん中すっきりするでしょ?」
「んー、いや、大丈夫」
「そ? もしかして……苦手? ミント」
本当は少し苦手。スースーして、口の中がびっくりしてしまうんだ。
「なんだ、言ってよ」
あ。
「ねぇ、ナオ?」
知ってた、だろ。カズ。
「……っ」
今の笑い顔は俺が苦手なの知ってた顔だった。知っていて渡した、悪い笑顔だった。そして、そのまま唇の隙間から侵入してきた舌にミントをさらわれてしまう。さらわれて、びっくりした口の中にはスースーした名残と、それから、キスのときめきだけ。
「バ、バカ、人がっ」
「いないかちゃんと確認したに決ってるじゃん」
人がいたらって心配しつつ、手はカズの服をきゅっと握って引き寄せていた。
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