47 / 86

第47話 相合傘

 毎回、毎回、どうしてこうも山を作れるのだろう。 「いやぁ、悪いなぁ、とは思うんだが、こう仕事に集中しちゃうとどぉぉぉぉしても片付ける時間が惜しくなるんだよねぇ」  申し訳ない、と笑顔で誤魔化しながら、最近は見かけなくなった無精髭がよく生え散らかっていた顎に手を置いて、たしかに四日前には綺麗にしてあったはずのデスクにある資料の山を不思議そうに眺めている。  まぁ、いいんだ。もう慣れたし、どこの棚にどの書物が入るのかってもう覚えてるから、しまう場所を探す手間もなく、わりと短い時間で綺麗にできてしまうから。 「大丈夫ですよ」 「悪いねぇ。剣道の先生もバイトでしてるんだろ?」 「剣道は子どもの頃からやってたから」  もう生活の一部分みたいになってたし。だからそれは全然苦じゃないんだ。  大丈夫と言って、まずは資料の山を切り崩そうとしたら、なんだかご近所にいそうなおばあちゃん口調で礼を言った明弘さんが、またにっこりと笑った。 「あと、こっちの翻訳のスペルチェックも頼みたいんだ」 「……」 「あははは、悪いねぇ」  まぁ……良くないけど。 「残業代ははずみます!」 「了解です」 「即答なのね!」  まぁ、いいよ。だって、夏に旅行する予定だから、その旅行資金を増やすためなら残業だって大歓迎、なんだ。 「弟も剣道やってるんだって? 親の勧めで? でも高校三年だろ?」 「……えぇ、だから剣道の稽古と夏期講習もあるんですよ」 「そりゃ大変だ」  そう、大変だ。夏期講習でほぼ一日。夕方くらいからは剣道の稽古が入ってる。剣道は社会人だったり、大学生だったり、中学生だったり、初級クラスには子どももいるから、基本的にレッスンの時間は固定されている。 「悪いな。直紀、どこまで進んだ?」 「あ、はい。えっと、もう半分は終わりました」 「そこまで終われば充分だ。悪いな。夜遅くまで」 「……いえ」  時計を見るともう九時近かった。でも、遅ければ遅いだけ、残業代が多くなるから、別にいいんだけれど。  早く帰らないといけないようなこともないし。  今日は、カズがその夏期講習だから。それと、剣道の稽古はなし。そういう時は夏期講習をやってるところで自習してから帰るって言ってた。  だから、早く帰っても、別に……。 「そしたら、俺はここで」 「あぁ、悪かったな」  無精髭がないと途端に清潔感溢れるセレブっぽさが出てくる明弘さんが、パソコンから顔を上げると、眼鏡を外して、眉間の辺りをぎゅっと指で押した。けっこう仕事立て込んでるんだろうな。資料の山もそうだし、疲れてそうだ。 「あの、俺、もう少しやっていきましょうか?」  尋ねると、ひどく疲れたんだろう目を見開いて、それから眉間の力を抜き、くしゃりと笑った。 「大丈夫だよ。ありがとな。それに今夜雨が降るって言ってたろ?」 「え? えぇ」 「だから早く帰ったほうがいい」  予報は出てた。もしかしたら所により雨が降るかもしれないって。でも小雨って。 「こんなに遅くなる予定じゃなかったから傘持ってないんだろ?」 「あ、はい、けど」  さすが、対人の仕事をしているからだろうか。観察眼がすごい。エントランスでインターホンを押した時に見つけたんだろう。扉が開くのを待ってる間に俺が傘を持ってないことに気が付いたのかもしれない。 「大丈夫だ。また数日したら宜しく頼む」  そう言って玄関先まで送ってくれた明弘さんにお辞儀をして、マンションをあとにした。 「……ぁ」  思わず、声に出た。  電車に揺られていたら、窓ガラスに雨雫が進行方向に斜めへ傾きながらぴしゃぴしゃと当たっている。雨がもうぽつりぽつりと降り初めてきてしまった。  困ったな。  傘、持って来てないんだ。  こんなに遅くなるつもりじゃなかったし。  ぁ、でもこの時間くらいなら夏期講習からちょうどカズが帰ってくる頃かもしれない。まだ、かな。けど、もう家にすでにいたりして。  わからないけど。  でも、まだ家には帰ってきてない気もする。  ちょうどそこで電車が駅に滑り込んだ。ゆっくりと停車して、窓ガラスには走った時の斜めに飛んだ雨雫が、ツーッと垂直に伝い落ちていく。プシュッと空気が抜けるような音がして扉が開くと、けっこうな雨音が電車の車内になだれ込むように入ってきた気がした。  けっこう降ってる。  やっぱり傘、買ったほうが良さそう。  とりあえず傘はあって困ることはないし。  そう思い、電車降りると駅の売店向かった。それでカズにメッセージを入れて、傘あるよって言えば、一緒に帰るのにちょうどいいでしょ。  メッセージ入れたら、一緒に帰る? とか、相合傘だけどいい? とか、それから、とにかくそういうことをわざと訊いてきそう。帰りたいって俺に言わせたいって顔をして。  あいつ、すぐにからかうんだ。昔はもっと素直だったのに。  昔はもっと――。  残り一本の傘を取ろう手を伸ばしたら、反対側から手が出てきた。  長い指、骨っぽい指。 「……あ、ナオ」 「え? ぁ、カズ」  びっくりした。ちょうど、だったなんて。  駅のホーム、階段を上がってすぐのところにある売店。けど、傘はもう残り一本。予想よりもずっと早くにそしてけっこう振り出してきた雨に、三百円のビニール傘は瞬く間に売れたんだろう。 「ぁ。今、帰りなんだ」 「あー、うん」 「外、雨降ってる」 「うん」  びっくりして、そしてドキドキした。もう十九年近く隣で見てきた顔なのに。夏期講習に剣道の稽古、受験生の弟に、どきまぎしてしまう。真っ直ぐ見てるのは少し胸のところが苦しくて。 「と、とりあえず傘を」 「あ、あぁ」  もう残り一本になった傘を。 「傘……」  必然的に相合傘になるなぁって思いながら、その傘を。 「「……」」  取ろうとしたら奪われた。  さっと横から出てきた手に、かっさらわれた。 「……フンっ」  鼻まで鳴らされて、奪うようにラスト一本となった傘を持って行かれてしまった。

ともだちにシェアしよう!