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第48話 クソババアに感謝を

「すごくね? さっきのクソババア」 「カズ」 「や、だって、すげぇじゃん。俺らが取ろうとしてたラスイチの傘、ドヤ顔で取ったけど」 「こーら」  予報では小雨程度、だったはずの雨。 「ぶん取ってった。あのクソババア」  けれど雨は大降りで、駅を出ると雨音がものすごいことになっていた。コンクリートの道は打ちつけるように降る雨の雫が跳ね上がり続けるせいで、白くモヤがかかっているようだ。これ、ほぼ夕立じゃん。夕方でもなんでもなく夜の九時だけど。  そんな大雨の中を、クソババアに傘を強奪されて買われてしまった。売店にももうないようだし。 「困ったな……とりあえず、雨が止むまで」 「なぁ、ナオ、そっちの鞄防水?」 「? 違うけど? なんで?」 「そっか……じゃあ、これにスマホ、入れてよ」 「……」  差し出されたのは厚さ二センチ程度のハードケース。書類とか一式を入れて持ち運べる箱型のプラスチックケースだ。その中にスマホを入れろって……なんで? 「俺の鞄も防水じゃないからさ」 「はぁ」 「ほら」 「……う、うん」  言われるがままにスマホをそのケースに入れるとカズもそこにスマホを入れた。そしてそれを閉じるとリュックの背中側に入れた。 「よし」  よしって、小さく呟いて、それから駅の屋根の下にいてもたまに風向きで入ってくる小さな雨雫に顔をしかめつつ、真っ黒でしかない空を見上げる。もちろん、星なんて一つも。 「カズ? っ! は? ちょっと、うわっ! 待っ」  もう手遅れだ。  もうどうにもならない。  待って、なんて言ったところで空高くから落っこちてくる無数の雫は待ってくれなくて。慌てふためいてばかりの俺は、弟の腕力に抗う暇もなく。 「ちょっ…………」  一瞬で、びしょ濡れになった。 「あはははは、すげぇ、慌ててる」 「んもー! 慌てるだろ! お前、何考えてんの?」 「だって、傘ねぇんだもん」  傘がないって。 「怒るんならあのくそばばあに怒れよ」  屈託なく笑うカズに幾人かが視線を向ける。カッコいい男子が急に傘も差さずにそのまま水遊びでも楽しむ子どもみたいにはしゃぎ出したんだ。そりゃ、見るだろ。 「ほら、ナオ、帰ろうぜ」  絵になる。  こっちに手を差し伸べて、もうびしょ濡れの濡れ鼠と化したイケメンが前髪をかき上げるのなんて、どこぞのモデル雑誌の撮影だ。 「もう手遅れだって」  知ってる。 「びっしょびしょ」  わかってる。 「バカじゃないの? カズは、ホントに」  ――ナオ兄ちゃん! 見て見て!  懐かしい。  慎重派な俺と、行動派のカズ。いつも遊んでいた細長い公園の噴水、夏しか噴水はしないのだけれど、そこで、呼ばれて、振り返ったら。噴水の水が出る口の上にカズがしゃがんでた。幾本も立ち上がる水の柱。けれど、カズのいる場所だけは水が上がっていない。  もちろんイヤな予感はその瞬間したよ。  けれども、手遅れだ。  ――うわぁぁぁぁぁぁぁ!  ――あはははは。  踏んづけていた水の出口をほんの少しだけ開放して、その水の柱をあろうことかこちらに向ける。びっしょびしょ。  夏で、暑くて、蝉があっちこっちでその細長い公園で大演奏を繰り広げる中、俺の叫び声と、カズの笑い声が響いてた。他の子も遊んでいたけれど、でも。 「すげぇ、雨―!」  でも、俺にはカズの声ばかりが聞こえてた。  ――ナオ兄ちゃんもびっちょんこぉ。  手遅れだと笑う弟に、俺ももう開き直って水を浴びせかけていたっけ。 「ナオ」 「……」  そりゃ、見惚れるよ。  雨雫を受け止めて、気持ち良さそうに目を瞑る横顔の清清しさに。 「ナオ」 「……」 「ナオもびしょ濡れ」  見つめたまま、目を離せなくなるに決ってる。  ――んもー! カズがやったんだろー! 「カズが手を引っ張るからだ」  もう、安全で一つも濡れることのない屋根の外に飛び出したらさ、一瞬なんだ。一瞬で濡れてしまう。開き直って、濡れることを堪能してしまうほどに。手遅れになるんだ。 「あんたたち、何してんの」 「「はい」」  我が家に鬼がいた。  仁王立ちになって、玄関先でずぶ濡れの俺たちを睨みつける鬼。 「まったく……受験生のあんたは風邪引いたらどうすんの? 夏期講習もあって、来週、剣道の大会もあるのに」 「別に……」 「別に……じゃない! 直紀も!」 「は、はい」 「あんたは剣道の指導だアルバイトだってあるんでしょうが。社会人になったらねぇ……」  って、言いかけてた母さんが溜め息をついた。 「ほら、そのまま二人でお風呂入っちゃいなさいよ」 「「は?」」 「は? って、そのままで上なんてあがらないでよ? 廊下は許すから、そのまま風呂場へ直行。濡れ鼠の洋服は洗濯機の中に放り込む」 「ねぇ、ちょっと、母さん!」 「ほらっ!」  俺もカズも鬼の逆鱗に触れることのないように、言われるがまま風呂へ一緒に行かなければいかなかった。

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