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第53話 夕陽色
誰よりも綺麗な剣道だと思ったんだ。
溜め息が出るほど美しいって思った。
「やっぱり強いねぇ。余裕の優勝だ」
「……島さん」
「決勝、余裕勝ちかぁ。涼しげな顔しちゃって、憎たらしいねぇ。憎たらしいけど、それもしばらく見られないと思うと寂しいよ」
「……そうですね、寂しいです」
けれど、あの姿を見られるのは今日で最後。夏の大会でカズは引退をする。受験に備えての一時的なものではなく、もうやめると言っていた。もちろん島さんも、ぎっくり腰で不自由をしている先生も引き留めたけれど、カズは笑って「やめます」と言うだけだった。
――だって、ナオいないし。朝稽古で煩悩振り払うこともしなくていいし。
やめると言った日の帰り道、俺も尋ねたんだ。本当にやめるのかって、もったいないじゃんって。
カズは笑っただけだった。やめる理由はそれ一つだけなんだろう。俺がいないから、ただそれひとつ。
「いや、あれよ? 君が現役復帰したら戻ってくるかも! っていうか、君は君で充分に強いからね!」
「まさか、もう無理ですよ。ブランク開きすぎてますから」
「いやいや、あのねっ」
急に始まった島さんの勧誘営業を振り払うべく、にっこりと笑顔でその場をすり足で逃げることにした。
だってもう剣道はやらないしさ。
あと、やっぱり島さんのこういうしつこいとこ苦手なんだ。粘っこいというか、だから剣道の稽古でも手合わせは極力避けてたくらいだし。愛想笑いと共に観覧席を後にしようとしたところで、監督代行の島さんが大会運営に呼び出されていた。たぶん、このあと休憩を挟んで行われる大会の閉会式と優勝の賞状授与とかそういうのがあるんだろう。
カズは……めんどくさいって顔をしてそうだ。
すました顔、でもほんの少しだけ眉間に皺を寄せて、小さく溜め息をついていそう。
でも、まぁ、めんどくさいかな。ここで待機だ、こっちに並べだ、色々言われるから。
「えーっと……麦茶のペットボトルと、それから返却するゼッケンと」
あまり強く引き留めなかった理由はもう一つある。
「あ、それから! あ! 直紀さん! お、お疲れ様です!」
この子だ。
「……お疲れ様」
道場にはこの子がいるから。
「……荷物番?」
うちの道場の選手たちの荷物が一箇所に集められていた。
「あ、はい。私は大会にはまだ出られないですから」
黒髪がとても綺麗な女子。大きな瞳は真っ黒で真っ直ぐに見つめられると思わず視線を逸らしたくなる色っぽさがある。竹刀なんて振れなさそうな細腕。か細い声。
「そろそろ皆引き上げてくるんじゃない?」
「あ、はいっ」
可愛いでしょ? 別に興味ない、とかそういうことじゃなくて、ただカズのそばにいて欲しくないっていうだけのこと。俺の小さいヤキモチ。
「あ、あの……」
俺の小さな、小さなヤキモチ。
「あのっす、す、好きです」
カズのそばに。
「い、いきなりこ、こここ、こんなこと言って申し訳ないです! あ、いえ、あの、付き合いたいとか、そういうことじゃなくて、その、去年のこの大会で、い、引退されたこの大会でお見かけして、とても綺麗な方だなぁって」
「……」
「一目惚れというか、なんというか、あんな綺麗な人がこんなに強いなんてってびっくりして! ほ、細い腰とか、白い肌とか、細い腕とか、なのに強くて、防具外したらとても綺麗な人で、もう、その、憧れというか」
「……」
「こんな人みたいになりたいな……って」
目の前の彼女は白い頬を真っ赤にして、華奢な肩をぎゅっと縮めて、細い指で自分の服をくしゃくしゃに握り締めている。
薄い唇を真一文字に結んで緊張を飲む込む。
「……お、思った、ん……です」
彼女の声が震えてた。
「…………えっ?」
恐る恐るこっちを見上げた彼女の瞳は潤んでた。まるで告白みたいに。
「…………えっ? あのっ」
「……」
「えっと」
まさか、俺?
「あー……ごめん」
「……」
「俺」
「……」
「好きな人、いるんだ」
今度は俺の声が震えた。
「ごめん」
明弘さんに酔っ払って言ったことはあるけれど、酔いもせず、この気持ちを誰かの告げたのは初めてで。
「ナオ!」
声が、震えた。
「ごめん。弟が戻ってきたから、それじゃ」
酔いもせず、好きな人がいると誰かに告げたのは初めてだったから、震えてしまった。
「は? 知ってたし」
「はぁ?」
何をしれっと涼しげな顔で言ってんだ。
「あいつがナオのこと好きなのなんて見てりゃわかるだろ」
大会の帰り道、元から団体行動が好きじゃないカズは兄と一緒だからと道場の皆とは大会会場でさっそく分かれた。
ふらりふらりとゆっくり歩いているものだから夏の夕暮れ、和らいだとはいえ傾いた日差しに焦げそうだ。
「ナオはそういうの鈍感だから」
「なっ」
「だから、あいつに俺が素振り指導とかしてたんじゃん。ナオは初心者コースの指導してたから」
「なんっ」
あったっけ。そんなことが。たしかに素振りの時、カズが率先してあの子にアドバイスをしていたことにヤキモチをやいていた。
「他にも、けっこうナオから遠ざけようとして必死だったんだ」
「なっ」
「……鈍感」
「ぉ、俺はてっきり!」
「知ってるよ。あの子が俺を好きだと勘違いして、すげぇ威嚇してたの」
「!」
「それはかなり楽しかったから、そのまんまにしておいた」
言われてみると、ちょっとだけ。大きな瞳って第一印象で思った。あれはコンビニで同じジュースを取ろうと手がぶつかった時、とても目を見開いていたのが印象的だったからだ。あの時は気が付かなかったけれど、あのびっくりした顔は俺をその前に見かけて知っていたから……?
「わかるよ……片想いの視線なんて」
「……カズ」
「わかるに決ってんじゃん」
低く聞き取れるギリギリの声でそう告げるともっと傾いた夕陽に目を細めた。
「俺もそうだったんだから」
「……」
「それにさ」
「?」
「ああいう清楚なのって、なんかナオ好きそうかもって思ってさ」
可愛らしい子だから、余計に邪魔だった。もしかしたらカズがふらりとそっちによろけてしまうかもしれないと。
「バカじゃないの」
「……」
「俺の好きなタイプの真逆だよ」
「そう? あの子の逆、かぁ」
「そう、逆」
わざとらしく考える仕草をして、カズが「うーん」と唸ってみせた。
「髪が茶色で、瞳は鋭くて?」
「あと、ふてぶてしい顔に不遜な態度」
今度はわざとらしく驚いた顔をしたりする。
「だから、あの子にはごめんって言った」
「……」
「決ってるだろ」
ずっと好きなのはそんなふてぶてしく不遜な弟なんだ。
「あー! 今日、ラブホ行きたいんだけどー!」
「バッ、バカだろっ! 何、言って」
「あー! ラブホ行きたーい!」
「バカ! うるさい! 今日はうちで祝賀会だ!」
「ラブホでご褒美がいいー!」
誰より、何より美しいと思ったんだ。竹刀を構える俺の弟は。それが見られなくなるのはとても寂しいけれど。
――しばらく見られないと思うと寂しいよ。
けれど、涼しげな顔をして余裕で優勝する弟が、兄が受けた告白を慌てて邪魔する顔とか夕陽色の屈託のない笑顔とかを今は独り占めできるから、あまり寂しいとは思わなかったんだ。
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