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第57話 昼間の学生さん

 なんか、なんかさ、すごい欲求にさ。 「あ、ナオ、これ、めっちゃ美味い。ゼリーの」 「にこごり」 「それ」  すごい欲求に忠実だなぁって、なんだか急に気恥ずかしくなってしまった。 「これも美味い。枝豆の豆腐」  だって、海から帰ってきて、露天風呂にも行かず、部屋の中に入る前に浴室でセックスして、ようやく部屋入って浴衣着て、もうそしたら夕飯の時間だと慌ててレストランへと降りて来てってさ。  部屋入ってまずセックスってさ。 「ナオ?」  ものすごぉく欲求に忠実だなと。 「どうかしたの? 食べないの? あは、ねぇ、ナオ、口の端っこ、なんかくっついてる」 「?」 「違う、右んとこ」 「?」 「ここ……蟹だ」  カズが腰を上げて、前のめりに手を伸ばすと、俺の頬にくっついていた蟹を指で取って、食べてしまった。 「蟹、そんなに慌てて食べたの? 子ども?」 「う、うるさいなぁ」 「……」 「? 何? なんだよ。ぽかんとして」  カズが少し驚いたような顔をしてこっちを見つめた。まだ何かついてるのかと思って手で触ってみたけれど、頬には何もついていなくて。 「いや、怒るかなって思った」 「……」 「人前だしさ、ナオ、怒るかイヤがるかなって」  レストラン食なんだ。長いすの背もたれが襖みたいになっていて、前後の宿泊客とは顔を合わせることはないけど、行き交う人は普通に横を通りすぎていく。もちろん、通りすぎていく人にはそこで食事を取っている人は丸見えだ。  男二人の宿泊客、それだけなら友人でもありえるだろうけど、頬にくっついた蟹はきっと食べない。  恋人、なんだろうって、わかる。 「べ、つに……」  傍から見て恋人同士に見えるのは、別にさ。 「いいんじゃない?」 「……」 「別に」  五月にした旅行もそうだった。  ここでなら、誰も俺たちが兄弟だってわからない。フロントの人くらいかな。チェックインの時に名前を書くから。でも、今通り過ぎたカップルも、ファミリーも俺たちの苗字が同じだなんて、血が繋がってるなんて、思わない、だろ? 「ね、ナオ」 「?」 「なんか、酒飲めば?」 「は? 飲むわけないだろ。まだ未成年」 「いいじゃん、飲もうよ。甘いのなら大丈夫っしょ。そしたら、カクテルとか?」 「飲まないってば」  それでもまだ尚頼もうとカズがメニューを眺めていた時だった、座席の反対側は海辺になっていた。  その海辺から突然上がった小さな打ち上げ花火。  シュルリと細い火柱を、真っ暗な空を駆け上がった。 「わっ……」  小さな打ち上げ花火だった。  瞬きくらいの短い火花が散った。 「……花火」  少しガラス窓へと顔を寄せて下を見たら、手持ち花火がキラキラと輝いているのが見えた。 「うちらも、食べ終わったらやってみようよ」 「花火?」 「ね?」  そう言って笑ったカズの横をまたシュルリと細い火柱が駆け上がって。 「……うん」  真っ暗な空の中で、パンっと弾けて火花がキラキラと舞い散った。  食事を終えて、レストランを後にする時、ホテルのスタッフに花火はできるのかを尋ねるとバケツは貸し出しがあると教えてくれた。家族向けには少ないけれど手持ちの花火もプレゼントしているらしい。けれど、あいにく、今日は満室だから余分がなく……と申し訳なさそうに謝られてしまった。  花火は近くのコンビニにあるはずだからと教えてくれた。 「ナオ、俺、フロントでバケツとか借りてくるから、ここで待ってて」 「あ、そしたら、俺、飲み物と一緒にさっき教えてもらったコンビニで花火見てくる」 「わかった。けど、気をつけて」 「気をつけるのはカズのほうだ」  俺が何を気をつけるんだか。  海で? 開放的な気分で? ナンパとか?  あるとしたら、心配するとしたら、カズのほうでしょ。  ヒラヒラと手を振って、コンビニに向かった。 「ふぅ」  少し、ふわふわする。なんだかのぼせたみたいに、足元がじわりと熱で痺れてる。酒、飲んでなんていないのに。  ゆっくり歩いて数歩。隣の旅館のところのコンビニ、そこだけがぼわりと一際明るくなっていた。 「花火は……うわ……」  そりゃそうか。ほぼほぼ完売していた。あるのは、さっき食事中に見たような打ち上げ花火の大入りサイズ。二人でやるには多すぎる量だった。夏真っ盛り、シーズン的には終盤なんだ。仕方がない。それなら、カズに言って、バケツを借りなくて大丈夫だと伝えないとって、振り返って。 「……ぁ、昼間の」 「?」 「学生さん」  コンビニを出ようとしたところで、知らない男性に学生かと尋ねられた。昼間の学生さんって。 「あー、わかんないか。ほら、昼間の、二割引き、サービスしますよぉ、の?」 「あっ!」  小麦色の人だった。 「海の家の!」 「っぷ、声、でか」 「! す、すみません!」 「いえいえぇ」  帽子をとってしまってるし、服を着てるからわからなかった。ものすごい金髪だ。 「泊まってんのって、この辺なの?」 「あー、はい」 「ふーん、そっか。あれ? 一緒の人は?」 「ぁ、バケツを借りに、でも、いらなかったんで」 「あー……」  手持ち花火、売り切れだから。 「もしかして花火買おうとしてた、とか?」 「はい。でも、さっき浜辺でやってるのを見て、あったらやろうかってだけだから、遅かったです」 「……じゃあ、これ、あげようか」 「え?」  昼間の二割引きの人が持ち上げた袋には、色とりどりの手持ち花火が並んで入っていた。今買ったんだろう、貴重な花火セット。それをすっと俺の前へと差し出した。 「あげるよ」 「いえいえ! あの、もらえません! 代金を、っていうか、どうぞ花火してくださいっ」 「いいよ、別に、いつでもできるし。そっちはせっかく海来たんだし、やりなよ」 「いえ……でも」 「……実は、さっき女の子をナンパしてさ。これ」  海の家の人がもう一つ持っていた小さなビニール袋。その中には、コンドームが入っていた。つまりは、そういうことに用いるために。 「花火はついで」 「……」 「だから、なくてもいいよ。花火はあってもなくても、こっちが欲しかっただけだから」 「っ」  その人はニコリと笑って、コンドームの箱だけをハーフパンツの後ろポケットに突っ込んだ。 「そっちの花火はいいよ、あげる」 「でも」 「あんた達のほうがきっと花火、したいでしょ?」 「……」 「楽しんでよ。せっかくだから」  金髪のその人は、少しパサついたその前髪をくしゃくしゃにしてかき上げると、花火のセットを俺にくれた。くれて、そして、笑った。 「そんで、今度は、来年? うちの海の店、ご利用ください。そんじゃーね」  この人に、俺たちはどう見えているんだろう。 「あー、もしもし? ごめーん。わりぃ、今そっち戻る……おー……マジかっ、あはは」  電話の向こうの誰かに笑って、ビーチサンダルの爪先で小石を蹴りながら。  一度だけこっちに振り返ると、くしゃりと笑って、手を振ってくれた。そして、何かを握る仕草をしてブンブンと手を大きく回す。空を指差して、掌をパッと広げ、星が瞬くようにヒラヒラさせ、それからまた手を振ってくれた。  花火を、楽しんで、かな。  わからないけれど。 「ナオ!」 「……カズ」 「花火あった?」  わからないけれど。 「もらった」 「は?」 「金髪の男の人にもらった」 「は? 外国人? ナンパ? 何、金髪って」  せっかくだから、いただいた花火の分以上にたくさん。 「ほら、行こうカズ」  楽しもうと思った。

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