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第61話 夏の終わり
遠足でも旅行でも、当日までは楽しみで楽しみでワクワクしてて。当日は、何もかもが楽しくて、とても楽しくて。楽しければ、楽しいだけ。
帰りが寂しくてたまらなかった。
楽しい事の終わりは、いつだって悲しくてたまらなかった。
イルカのショーとアシカのショーも楽しかった。クラゲも綺麗だった。色々な魚がいて、大水槽ではしばらく座り込んで目の前に広がる光景を眺めていた。水族館を出たのは夕方。ちょうど目の前に海が見えるカフェがあったから、そこで軽く食事をした。カズがパスタで、俺はピザとサラダ。サラダがすごく大きくてテーブルに置かれた瞬間、二人して顔を見合わせてしまったくらい。ゆっくり食事をして、さて、帰ろうって駅に辿り着いたのが七時だった。
海、楽しかった。
食事は美味しかった。ちょっとだけ日焼けもした。
花火はドキドキした。
キスをたくさんした。
セックスも、何度もした。
「ナオ、乗り継ぎ、急げば間に合うかも」
「……いいよ。慌てなくても」
あそこでは恋人だった。
「…………そうだ、ナオ、腹減らない? さっきのカフェで食べたけど」
「……」
帰らないといけない。今の時間が、ポケットにあるスマホを取り出して確認すると、九時だった。そしたら、あともう一回電車を乗り継いで、家につくのは十時近くになってしまう。同時には帰れないから、カズを先に家へ帰して、俺は一時間くらいどこかで時間を潰して帰らないと。カズは前に高校生のうちはあまり遅くならないようにと母さんに言われてるから、だから、もう。
「駅の中にラーメン屋とかもあるじゃん」
もう帰らないと。
明日は、カズは朝から夏期講習がある。そのスケジュールに合わせて宿泊の予約を取ったんだ。俺は、明弘さんのところで午前中にバイトが入ってる。午後から打ち合わせがあるんだけど、その翌々日にも大事な案件があって、手伝って欲しい仕事があるって言われてる。だから、もう帰らないといけない。
明日からは、また戻らないといけないから。
「あとは……」
「……カズ」
帰らないといけない……けれど、でも。
「……」
でも、まだ帰りたくない。
まだ、一緒にいたい。
「……あ、の……さ」
「……」
「あの、カズ」
もう一晩一緒にいたい。
どこかに泊まろう? ビジネスホテルとかでいいから。ここ駅大きいし、スマホで探せばまだ七時だし、どこかしら部屋取れると思うんだ。家に電話して、俺はもう一泊ちょっとしようかなって思ってるって、言ってさ。カズは。
「ぁ……の」
カズは。
「えっと……」
カズはなんて言い訳を。
「……ぁ」
「ナオ、まだ、もう少、」
手に握ったままだったスマホにいきなり着信が入って、飛び上がりそうなほど驚いてしまった。
「……あ」
電話は、明弘さんだった。
「ごめん、バイトの……」
「……」
「もしもし? お疲れ様です」
『あー、悪い、まだ、外だったか?』
「あ、いえ」
『プライベートの時間に申し訳ないんだが、明日の打ち合わせの時間が少し早まりそうなんだ』
「あ、はい。そしたら、俺も少し早くにそちらに行きます」
『悪いな。もし、遅くてもかまわなければ打ち合わせ後でも』
「いえ、先に済ませておいたほうが、いいですよね? 何か先方からの問い合わせがあったら、遅い時間だと対応できないとかあるかもしれないので」
ついさっきまで、カズのもう一泊分の言い訳を考えてる間、お腹の底から、喉奥までが燃えるように熱くて、火照って、頭の芯が痺れたような感じがした。それが、ゆっくり、明弘さんとの会話で、ゆっくり解けて、燃えていた何かがしっとりと炎めいた色を消していく。
ゆっくりと。
「いえ、大丈夫です……はい。それじゃ、明日九時に伺います」
ゆっくり、赤い火の色が黒く変わっていく。眩暈がするほどの熱さが和らいで、冷えていく。
「……はい。失礼します」
バカだな。
「ごめん、カズ」
「……いや、別に、それより、今から」
「ほら、帰ろう」
カズがもう一泊どこかに泊まる理由、ちゃんとした嘘なんてさ。
「は? ナオっ、今っ」
「帰ろう」
もう一泊分の上手な嘘なんてないだろ。
「けどっ」
「駄々っ子」
「ちょっ! ナオ」
「また、どこか行こう」
まだ、ここなら遠い。家から遠いから、時間も遅いから、まだほんの少し指先を繋ぐ程度なら大丈夫。
「またっていつ?」
「そのうち。っていうか、お前、受験生じゃん」
「そんなの、別に」
「来年大学に行けばもっと自由になれる」
「……」
夜出歩くのに、あれこれ理由をちゃんと考えなくても大丈夫になる。実際、俺が今そうだろ? 適当に、誰かと遊んでくるって言えばいいんだから。もう一人暮らしをしている奴だっている。高校を卒業してしまえば、さ。
「ほら、帰ろう」
「……」
「カズ」
「すげぇ、楽しかった!」
駄々っ子は弟の特権だ。
「海も水族館も、花火も全部楽しかった。ナオと入られるんなら、俺はっ」
「俺も」
長男は、言うこときかないと。
「俺も、すごい楽しかった」
「……」
「また、一緒に行こう。どこか」
「! どこでもいいよ! 俺、ナオとならっ」
「俺も、どこでもいいよ」
カズといられるのならどこだっていいんだ。
「また、ね」
そろそろ帰ろう。そういうといつもカズがむくれてた。まだ遊ぶって座り込んで、不貞腐れた顔で砂をずっといじってたっけ。ジャングルジムから降りてこないなんてこともあったっけ。そんな時は必ず、こうしてた。
「また行こう?」
また明日遊ぼう? そう言って手を伸ばすんだ。そうすると、不貞腐れた顔は変わらず、けれど差し出した手を繋いでくれる。必ず、手を差し出したら繋ぐんだ。
今はお互いに少し大きくなってしまったから、おかしいかもしれないけれど。
「……絶対だから」
そうやって不貞腐れなカズと一緒に自宅のある最寄り駅に辿り着いたのが夜の十時近く。夜だからなのか、駅を降りると風は冷たく、少し肌寒かった。
夏が終わる、そんな風だった。
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