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第63話 熱の名残
ゴム、しないでしたいのに。
――ゴムなんて。
――もうつけたよ。
昨日こそ、そのまま欲しかったのに。
「直紀、悪いんだが、ここの資料用意しといてくれないか?」
理由はたぶん、あのせい、だ。
旅行先で生でしたせい。というか、きっと、あの後に帰ってから、俺が熱を出したせい。数日熱が下がらなかったんだ。ただの夏風邪なのにカズはものすごく心配してて、申し訳なさそうな顔をしてたっけ。
全然、違うのに。
いいのに。
もしもあの発熱が夏風邪でないのなら、俺は嬉しいのに。
「急ぎじゃないから、そっちが終わってからでかまわないよ」
全然、発熱なんてさ。それがカズとした熱が身体の中に残ったせいでだったみたいに思えて、俺は嬉しかったのに――。
「おーい!」
「っうわぁぁぁ!」
「……お前ね」
突然、視界に飛び込んできた明弘さんのドアップに仰け反って驚いて、その拍子に近くに山済みになっていた本たちが見事な雪崩を起こして床に散らばった。バサバサと落ちてしまった本たちの中には分厚いものも、古くて壊れやすいものもあるから、そっと、一冊ずつ身長に持ち上げた。
「すみません」
「いや、驚かせたな」
「いえ、考え事してた俺が悪いんです」
「考え事……」
「すみませんっ」
最近、明弘さんの無精髭を見かけなくなった。来客の頻度が高くなったし、テレビ電話での短いミーティングならほぼ毎日あったりするようで、髭を伸ばす暇がないんだろう。この前も訪れたらちょうどテレビ電話で打ち合わせをしている真っ最中だった。これじゃ、ワークとプライバシーの境界線が曖昧で仕方がないって苦笑いを零してたくらい。
「えっと、何かお手伝いすることが?」
「あぁ、悪いな、急ぎってほどでもないんだが」
「大丈夫です。何します? 来週の月曜からですよね? 一ヶ月」
仕事が順調なのはいいことだけど、ちょっと疲れてもいそうだった。明弘さんがテレワークだけでなく、来週から一ヶ月の海外での仕事が決って、今はその準備もあったりして、かなり忙しいのに。俺はボーッと何、してんだよ。
「あぁ、月曜からだ」
明弘さんの英語はとても綺麗だ。帰国子女ではなく、日本生まれの日本育ち、英語を始めたのが特別早かったわけでもない。普通に他の同年代と同じ時期に学校で習い始めて、今こうして英語を生業にしている、だなんて。
俺からしてみたら、その綺麗な発音はうらやましくなるほどだけれど。
明弘さんから、耳、聴力が肝心なんだって教わったことがある。。耳が良ければ音をそのままダイレクトに発音できるようになると。
「そしたら、急ぎじゃないんだ。これを準備しておいて欲しい」
「あ、はい」
手渡されたびっしりの英文。ここのバイトを始めた頃だったら、きっとその膨大な英文量に目を丸くしていたと思う。
「わかりました」
今は、このくらいなら大丈夫になってきた。
「…………面食らわないんだな」
「え?」
それ、と呟いて、今、明弘さんが俺に手渡した英論文の一枚目をとんとんと指で突付いた。前だったら、その量に面食らって怖気づいてただろうと。
「まぁ、最近、お前の英語力めきめきと上がったもんな」
「……誰かさんがたくさんお仕事を回してくださるので」
「あはは、それでも、面食らう奴は変わらず面食らうもんだ。やっぱお前は耳がいいんだよ」
――ナオ。
「!」
耳元で囁かれただけで射精するくらい。
「直紀?」
「あっ、えっと、大丈夫です。資料、先に持ってきます! 急がないとしても月曜までそう日にちないですし」
「……」
「そしたら……」
耳の感度なら。
「そういや、あれ、どうなった?」
「え?」
「夏前に話してくれただろ? 恋人のこと」
「!」
明弘さんは分厚い本を片手で持ち上げるとそれを俺の腕にぽんと置いた。
酔った勢いで話してしまったんだ。もちろん名前は出してないけれど、
「不道徳な相手、だっけか?」
夏の間、何度、カズとセックスしただろう。
「純愛なんかじゃないって」
何度、弟に抱かれたんだろう。
「言ってただろ?」
「……ぁ」
「どんな相手なんだろうと、あれだ、夏風邪でしばらく休んでただろ? その休み明けのお前を見て、思ったよ」
二週間、風邪の症状が治らなかったから、こっちへは来ないようにしていた。翻訳の手伝いだから、メールのやり取りでもどうにか事は進められる。しばらくは在宅で手伝いのアルバイトをしていた。いわゆるテレワーク。その二週間明けで訪れた時は山になった資料を見て、少し懐かしくもあった。五月、ここでのバイトを始めた頃にはそんな本の山によく遭遇してたから。
「どんな相手とどんな過ごし方をしたら」
どんな相手と――「っナオ」
「そんな色っぽい顔をするようになるのかね……って思った……んだ……」
どんな過ごし方を――「甘イキ、すごいね」
「す、すみませんっあの、お手洗いをお借りします!」
「……」
弟と何度もセックスしてました。
何度も何度もして、何度も何度もイって、一人ぼっちの快楽しか知らなかった身体は恋焦がれていた弟に抱かれる悦びにずっとずっと浸ってました。
「っ……バカ、今、バイト中なのに」
思い出しただけでカズのペニスの先が抉じ開ける場所がジリジリ焼けていく。熱に蕩けたそうに、下腹部が締め付ける。
中に注いで欲しそうに、孔から奥が、まるで女性みたいに潤んでいく気がした。
「っ」
慌てて口元を手の甲で押さえて、それから身体の火照りを少しでも和らげようと水に手をかざす。
残ってる。
まだ、身体の中に残ってるんだ。
はしゃいだ夏の名残が、身体の奥で小さくくすぶっている、そんな気がして、たまらなくて、何度も熱を飲み干した。
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