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第68話 足跡

 一度だけ、隠さなかったことがある。  ――ねぇ、和久井和紀ってさ、いっこ下にいるのって、直紀君の弟なの?  同じ学年で隣のクラスの女子がそう言って突然声をかけてきた。読者モデルをしているっていう噂のある人気の女子だった。美人で、綺麗にカラーリングされた髪が自慢気に揺れていた。カズに興味があるのは一目瞭然だった。  そうだけど? なんで?  普通の兄なら、そんなふうに返事をしたのかもしれない。でも、俺は、そうは返事をしなかった。  ――違うよ。  ただそれだけ冷たく告げて、その女子を置いて、さっさと離れてしまった。  見え見えの嘘で、迷惑そうな不機嫌顔で、向こうの俺への印象は最悪になろうがかまわない。カズのことをその女子から遠ざけたんだ。  触れられたくなかった。  俺の弟に。 「…………ナオ? どうかした?」  俺の、好きな人に。 「……これさ」  たった一回だけれど、自分の気持ちをあの瞬間は隠さなかったんだ。 「これ、俺は好きだよ」 「……絵?」 「うん」  まだ制服もセックスに乱れたまま、ナオが汚れるからと下に敷いてくれたニットの上に、半裸で座り込んで、壁一面に広がる花火の絵を眺めてた。絵の具だけじゃないんだ。布とかも貼り付けてある。どこかからもらって来たのかな。和紙で作った花もいくつかぺたりとくっついていた。  色んな気持ちを抱えてる。好きも、自己嫌悪も罪悪感も、ひとりよがりな感情も、寂しいも悲しいも嬉しいも、全部抱えて、全部混ぜて、ぐちゃぐちゃの泥色をしてると思ってた。 「そうだ! カズ、いいこと思いついた!」 「?」 「ね、絵の具ってまだある?」 「あるけど……描くの?」  ちょっとだけだけれど、俺たちも参加したいなぁって思ったんだ。 「絵の具……ナオ、何色でもいいの?」 「うん。何色でも大丈夫」 「…………ちょっと待ってて」  カズが立ち上がるとこの文化祭で使ったものがしまわれている棚をがさごそと探り出した。暑いって言って、まだ上半身裸のままだから、その背中に俺がつけた爪痕が残ってるのが薄暗い教室の中でもなんとなく見えた。 「はい、あったよ。花火の絵にするからって、明るい色しかないんだけど、ピンクか黄色」 「あ、じゃあ、そしたら、ピンク」 「はい」  戻ってきたカズが俺の手の中にもう今日散々使われて、くしゃくしゃに潰れた絵の具のチューブを置いた。 「で? どうすんの?」 「これ、でさ」  水彩だから後で手を洗えば平気。 「こうしてさ……」  そのピンクの絵の具を左の人差し指で掬い取ると、握り拳を作った右手の小指側の側面にべったりと塗りつけた。 「あ、わかった、ナオ」 「わかった?」 「こうすんでしょ?」 「そうそう」  俺が握り拳にした右手の小指側の側面を、その大きな真っ黒のキャンバスにくっつける。それから、その上部分に、余った絵の具を人差し指に塗りつけたカズが、ポンポン、ポン……って、五箇所上部分に並べるように指で丸をくっつけた。 「できた!」 「……そしたら次、反対側もやる? ナオ」 「うん」  子どもの頃、お風呂でこうしてよく遊んでた。小さな足跡が作れるんだ。ペタペタと交互にこれをずらして並べていくと、あたかも壁を小さな子どもが歩いていったみたいになる。 「カズ、こっちにも絵の具」  絵の具が乾いてしまわないように手を差し出すとカズが笑いながら、それを指で塗ってくれる。そして、また、ぺタリとキャンバスに足の裏がくっついて、指が五つ並んでぽんぽんぽんって。 「今度はナオが俺のとこに塗ってよ」  ぺた、ぽんぽんぽんって。 「ナオ、不器用。指、なんか変じゃね?」 「変じゃないっ」 「美術の成績いくつ?」 「……内緒」 「悪かったんだろ」  ぺた……ぽんぽん、ぽ、ぽぽん。 「っていうか、ただ指の痕で美術のセンスなんてわからないだろ」 「はいはい。ナオでも苦手なものあるんですねー」 「カズはないのかよ。苦手なもの」 「あるよ」 「何なに?」 「我慢」 「……」  ぺたり。 「我慢すんのすげぇ苦手」 「……」  今度はカズが指をくっ付ける番。 「カズ……今、我慢してること、あんの?」 「……」  俺も、あるんだ。今日は、我慢しないで済んだけど。 「あるよ。けど、今日は我慢できなかった」 「……何?」 「ナオのこともっと抱きたい」 「……」 「去年の今頃、こんなふうにナオといられるなんて思いもしなかった。だから、今でも充分、すげぇ嬉しくて幸せなのに、もっともっとって思ってる」 「……」 「抱けば抱くだけ、もっと抱きたくなる」  暗い中でもわかるほど切ない表情。 「ねぇ、ナオ、生まれた時から一番近くにいる人なのに、なんで、足りないんだろ」 「……」 「こうしてさ、隣で笑ってくれるだけでも嬉しいはずなのに。そうやって笑うナオを見る度に押し倒して、抱きたくなる」 「……」 「ゴムすんのだって、自分なりにブレーキのつもりなんだ。ゴム一枚で遮っておかないと、ホントに、……」  暗い中でも見えているのだろうか。俺の、嬉しそうな顔は。見えていて欲しくて、そっと唇にキスをした。もしも見えなくても、このタイミングでキスをすれば、わかると思ったんだ。嬉しくて、たまらないって。それにこんだけ近くにいけば、薄暗くたって見えるだろ? 「もっと、してよ、カズ」 「……」 「カズのこと独り占めしたいんだ。だから、してよ」  生まれた時からずっとずっと好きだったんだ。大好きなんだ。 「もっと、して……カズ」  本当はこう言いたかった。  ――ねぇ、和久井和紀って、一つ下にいるのって、直紀君の弟なの? 「我慢なんてしなくていいのに」 「……」 「俺はいつだってカズのこと欲しいんだから」  ――そうだよ。弟。でも、ダメだよ。カズは。 「俺の全部、カズにあげるから」  ――カズは俺のだから。 「カズをちょっとでもいいから、俺に、ちょうだい?」  本当は、そう言って、あの女子に自慢して、独り占めしたかったんだ。

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