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第70話 キスマーク
海外から帰ってきて一番に食べたのは蕎麦だったって教えてくれた。
「納豆とかは食おうと思えば食えるんだよ。売ってるし。けど蕎麦はなぁ、めんどくさいだろ? めんつゆも買わないといけないし、蕎麦ゆでないといけないし」
だから、ずっと食べたくて、食べたくて、帰ってきてすぐに食べたんだって。揚げ玉をたんまり入れて。
なんか明弘さんみたいな大人でも子どもみたいに揚げ玉に喜ぶんだなぁって思った。
カズも揚げ玉好きだったっけ。母さんが夏にざる蕎麦を作ってくれると揚げ玉ばかり食べて怒られてた。
――いいじゃん。美味しいんだもん。
そう言ってブツクサ文句を零しながら蕎麦を食べてた。カズは好きなものがあると、そればかり食べてしまうから。飽きないの? ってくらい、ずっとそればかり食べるんだ。
「どうかしたか? 直紀」
「あ、いえ。すみません」
いつもどおり資料の片付けをしながら、ついそんなことを思い出して、手を止めてしまっていた。少し笑っていたのかもしれない。だって、カズはあまりに揚げ玉が好きすぎて、おやつに揚げ玉だけをリクエストしたことがあるくらいだから。スナック菓子みたいに食べてみたいって言ってたのを思い出して、笑ってしまった。
今はあんなに大人の男みたいに見えるのに。
「そうだ、この前のお土産ありがとうございます。すごい喜んでました」
「あぁ、ワイン? 甘かっただろ?」
「母はあまりアルコールが得意じゃないので、甘いシロップみたいなワインに驚いてぐびぐび飲んでましたよ」
「そりゃよかった」
重いなぁとは思ったんだ。何が入ってるんだろうと。
ワインだった。有名なワイナリーのものらしくて、おつまみのチーズも一緒に入っていた。
「飲んだか?」
「まさか、俺、まだ未成年ですよ?」
「硬いこと言うなよ。もうすでに一回飲酒してんだから」
「ダメです。チーズはいただきました。美味しかったです」
見た目はカビがくっついてるせいかあまりよくなくて、口に運ぶのに少し抵抗があったんだけど、コクがあってとても美味しかった。
「弟と食べたのか?」
「えぇ」
「弟は……いくつ?」
「今、高校三年で」
「へぇ、受験かぁ」
明弘さんはパソコン仕事の手を止めて立ち上がる。コーヒーかなって、思って俺もつられて立ち上がった時だった。
「……」
大きな、骨っぽい手が俺のシャツの襟を直してくれた。うなじとか、弱いからさ。くすぐったがりの俺は少し身構えてしまうんだ。
「直紀もコーヒー飲むか? まだなんとなく時差ぼけが残ってるのか、疲れやすくてな」
明弘さんは背中をグンと伸ばすように身体を少し反らせて、そして、キッチンへと向かった。一人暮らしだからかな、キッチンはいつも綺麗で生活感があまりない。今日も来客があったのか髭をしっかり剃った明弘さんが立ってると、住宅情報雑誌のモデルルームの写真みたいに思えた。
背が高く、すらりとした大人の男性が立つキッチンはとても様になっていた。
「……あ」
バイトを終えて、帰宅後、バスルームで思わず、声が出ちゃった。
「別のシャツにすればよかったな……」
今日着てたシャツじゃキスマーク見えるんだ。角度というか少し動いたり着崩れたりすると、首の付け根の赤い印がちらりと見て伺えた。
「……」
バイトを終えて、自宅の洗面所で手を洗いながら発見したこの前つけられたキスマーク。くすぐったがりの俺のことを面白がって、カズがその日はやたらと肌に噛み付いて、キスをしていた。
きっと明弘さんはこれを見つけて、無言のまま隠してくれたんだろう。見えてるぞ、とかからかうとかじゃなく、そっと、大人の対応を。
「……わかったかな」
わかるわけ、ないでしょ。相手までは。
「……」
普通、兄弟でセックスしているなんて、そんなこと想像もしないでしょ。
「あとで、カズに注意しないと」
今日は塾で遅くなるって言っていたから。迎えに行って、驚かせて、それからブラブラゆっくり帰りながら、キスマークのことを話して、笑って、そしたらカズは少し拗ねるかも。
「ただいまぁ」
「!」
あれ? もう、帰って来たの? 早くない?
「おかえり、カズ」
「ただいま」
洗面所から顔を出すと、カズが少しびっくりしていた。
なんだ、こんなに早く帰ってくるなんて思ってなかった。残念。
「? どうしたの? ナオ」
「んー? べっつにぃ?」
「何? っつうか、痛い。鼻摘まないで」
一緒にブラブラ散歩しようと思ったのに。少し秋っぽさが増して、夜は風がとても冷たくなってきたけれど、でも二人なら大丈夫だろ? 手を繋げば温かいから。
「何? なんなの?」
「なんでもないよ」
「は? じゃあ、なんで俺思いっきり鼻痛くされんの?」
あまり隠さなくなったんだ。
「ねぇ、ナオっ」
仲良し兄弟のフリをして。
「ナオってば」
触れたいと思う気持ちに素直になるようになった。
「ナオ……」
「バカ、カズ、これ……」
「……」
春が過ぎて、夏も終わって、秋になった。深まる秋に、色濃くなる秋に染まるように。
「これ、キスマーク見えたじゃん」
「……」
「牽制したつもりなんだろ? そんなことしなくたって」
「……」
この部屋に二人っきりになったら、俺とカズはもう仲良し兄弟のフリもやめて、ただただ、恋しい人を欲する。
「浮気も、余所見もしないってば」
「……」
「こんなに全身に、カズの痕が残ってるんだから」
兄弟でこっそりと子ども部屋に篭もるんだ。そして、全身、丸ごと、気持ちイイと悦がる場所全部に口付けられた兄は弟の前で裸になって、甘い口付けをした。
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