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第72話 お終い

 間違えた。  寝惚けてたんだ。あまり寝てなかったから。つい今朝の優しい指が額に触れたのがとても気持ち良くて、嬉しくて。カズの夢を見てた。  カズかと思って指に触れてしまった。  甘い声でカズのことを呼んでしまった。 「…………直紀……今のって」  あんな声で弟のことを呼んだりしない。  あんなふうに弟に触れたりしない。  普通は。 「……っ、ごめんっ」 「直紀!」  慌てて逃げ出した。鞄を鷲掴みにして、ただ、急いでその場を逃げ出した。  あれは弟を呼ぶ声じゃない。  あれは……弟には、しない。  普通は、しない。 「っ、っ、はぁっ、はぁっ」  急いで階段を駆け下りた。途中躓いてそのまま階段から転げ落ちそうになりながら、角のところで曲がりきれず、肩をしたたかに打ちつけながら。走って、逃げて、走って、走って。 「っ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」  あれは、ダメだった。 「っ、はっ、あっ」  取り返しのつかない失敗をした。 「っ、っ、っ、っ、はぁっ」  あれは……もう。  大学を飛び出して、ギリギリと痛む横っ腹をぎゅっと手で掴みながらその場にうずくまる。  ぎゅっと目を閉じると、今さっきの司の顔が頭の中に映し出された。信じられないものを見るような、恐ろしいことを知ってしまったような、愕然とした顔。 「っ」  怪物でも見るような目をしていた。 「…………ウソ……でしょ……」  それを思い出しただけで、足元から恐怖で凍り付いていく。なのに熱くなっていく。あの時の司の視線に全身が炎にあぶられているように熱くなって、とてもイヤな汗が肌にじわりと滲んだ。  なんであの時、大学の資料室なんかで寝てしまったんだろう。寝なければ、あんなこと寝言で言わなかったのに。言わなかったら、司に聞かれることもなかったのに。  なんで、あの時。  なんで。  なんで。  なんで。  なんで。  なんでっ……。  でも、もう遅い。きっと知られた。あの司の表情を見ればわかる。 「……き、直紀っ!」 「!」  突然の大きな声に手から資料の本たちがバサバサと羽ばたき損ねた鳥のように落っこちた。ううん。気持ち良くなりながら大空を無防備に飛んでたのを、見事に撃ち落とされた。 「…………ぁ」  足元には撃ち抜かれて死んでしまった鳥の死骸みたいに本が散らばった。 「す、すみません。今片付けます」 「……」  バカ。今は、バイト中だろ。 「直紀」 「は、はい」  でも、大学からここまでどうやって来たのか覚えてない。  いや、覚えているけれど、まるでぼかしの入った防音ガラスの向こうで起きたことみたいに、何もかもがほとんど聞こえなくて見えなくて、ぼんやりとしている。  大学を飛び出したのは何時だったっけ?  今日、明弘さんのところに来る時間は何時になっていたっけ?  俺は時間通りに動けてた?  来客の邪魔とかにはなっていない?  俺は。 「おい、直紀」 「!」 「……大丈夫か?」  凍りついたような、後悔に焼け爛れたような、鈍った感覚の手を明弘さんの手がぎゅっと握った。 「手、痛いのか?」 「……ぁ、いえ」  本を拾うとしたけれど、上手く手が動いてくれなかった。無意味にカリカリと分厚い本の表紙をただ引っ掻いていた。明弘さんが見かねて拾ってくれて、俺の自由の利かない手を掴んでくれた。 「……なんか、あったのか?」 「……」 「なお、」  そこに電話が鳴った。仕事で使っている固定のではなく、デスクの上に置いてあったスマホがけたたましく、まるで騒音みたいな振動音を響かせている。 「悪いな」 「い、いえ」 「……もしもし? …………」  明弘さんは電話に出たけれど、一言も話すことなく、その電話の向こうの誰かの話を聞いて、そして視線をこちらに向けた。ほんの少しだけ表情が曇ったようにも見えた。けれどそれも、どこかぼやけていて。 「……いや、来てないな。今日は俺が用事があるから休んでもらったんだ……あぁ、伝えたいことがあれば伝言頼まれてやるが? ……そうか、わかった」  口調からして仕事関係じゃない。恋人、とかでもない。友人だろうか。通話を切ると小さく溜め息を零し、髪をくしゃくしゃと大きな手でかき乱した。 「……司からだった」 「!」 「……」  ただその名前一つにまた竦み上がる。 「直紀はそっちに来てないかと訊かれた」 「……」 「だから来てないと答えた。あいつ、お前に何か話したそうにしてたぞ。来てると言ったら、ここに乗り込んでくる勢いだった」  司が、俺を探してる。そのことに恐怖で動けなくなりそうだ。このまま恐怖に凍り付いて粉々になれたらいいのに。このまま焼け焦げて炭にでも灰にでもなれたいいのに。 「なぁ、直紀」  もう、ダメだ。 「お前さ」  もう――。 「俺と海外に行かないか?」  もう。 「お前を逃がしてやる」  もう死んでしまったほうが。 「ここから逃がしてやる」  きっと楽だと思った。 「直紀」  そして、ずっとぼやけていた視界は泣いているからだと、ようやく気が付いた。

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