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第73話 不幸
向こうに長期で出張してただろ? 仕事を海外拠点にしようと思って、事務所も兼ねた住居を探してたんだ。
あっちに行こうと思ってる。
いいところだったぞ? お前用の部屋も用意できる。
お前も一緒に行かないか?
資金は気にするな。大学は、そもそもこういう英語を使った仕事をしたかったんだろ? 休学をとりあえずしてみるっていうのも有りだと俺は思う。親を説得するのも手伝う。渡航の準備は全面的にバックアップしてやる。だからな、直紀。
それはあまりにも突然の話で、聞くだけで頭がショートした。頭はぐらぐらと酔っ払ったようにひどく揺れて、痛んで、何も考えられないほど。
――向こうに行こう。
「……」
いつしか罪悪感は薄れていたんだ。
どこかでさ、思ってた、
そこら辺によくある恋愛物語の中にゴロゴロとたくさん転がっている台詞と同じことを思っていた。
ただ好きなだけなのに。ただそれだけなのに。どうして?
だなんて、まるで甘いばかりの恋愛映画みたいなことをさ。
思っていたんだ。
全然違うのに。
身分違い、性別のこと、歳の差、そういうのとは全然違うのに。
最初、決めていたことがある。あの春の日、カズに初めて抱いてもらった日に、一つだけ決めていたことがあった。
誰かに知られてしまったら、おしまい。
そう、ひっそりと胸の内で決めていた。
でも、誰にもバレなかったから、ゆっくり、ゆっくり時間をかけて罪悪感も、危機感も、薄れて和らいでいった。
春が過ぎた頃、少し緊張がとけた。夏が終わる頃、恋しさが増して止まらなくなった。秋になっても、まだ誰にも疑われもしないから、上手になったって思ってた。
下手だった嘘が上手になったって。
だって、思うだろ? ずっとずっと好きだったんだ。カズのことが好きでたまらなかった。これはダメなこと、思ってはいけないこと、そう思ってたんだ。けれど、それでも好きな気持ちは消えてくれなかった。消えない想いにさいなまれて、もがいて、痛くて、ずっとずっと苦しかった。
その焦がれるほど愛しい弟が応えてくれた。許してくれた。
どれだけ嬉しかったか。
弟も同じように俺のことを好きだった。
ねぇ、そう知ったら、嬉しくて嬉しくて、有頂天にもなるだろ? ずっと好きな人だったんだ。
ただ好きになってしまっただけなんだ。
それなのに、なんで――。
なんで?
何言ってんの?
だって、それは悪いことじゃん。兄弟でなんて、ダメに決ってるじゃん。
ねぇねぇ、それってさ、近親相姦っていうんだ。してはいけないことで、兄弟でなんてダメなんだよ。
それは、禁忌。
忌みはばかること。禁止されてること。
ね? ほら、ダメなんだよ。絶対に。
「ナオ!」
弟とセックスなんて。
「どうしたの? 家の前で突っ立って」
「……」
「ナオ?」
しちゃいけないことなんだよ?
「……」
「ナオ? うち入らないの?」
だから、言わせなかったんだ。あの一言だけは言わせなかったんだろ? 俺は、カズに絶対に「好き」って言葉を言わせなかった。
ただセックスの相手をしてもらっただけ、それを事実とできるように。
「ナオ?」
「……カズ、話があるんだ」
「? 何? 今?」
「うん。今」
「……部屋じゃダメなこと?」
「うん、そう、ダメなこと」
「何? あ、うちの中じゃ話せないこと? ね、デートのことだったらさ、俺、次に」
だって、カズのこと、大事だろ? こんなにこんなに大好きならさ、カズのことを一番に考えるべきだろ?
――なんとなく、な。そういうことなんじゃないかって、思ってた。だから、事前に渡航していた時、お前も住めそうなところを探した。そんで帰ってきて、この前のだ。お前のうちにあえて土産を持って行ったのは、確かめたかったっていうのもある。そんで、まぁ、確かめた結果、確信した。
「あ、のさ……」
――今は夢中なだけだ。ずっと近くにいたから他に目が向かなかったんだよ。けど距離を置いてりゃ、そのうちイヤでも落ち着く。気持ちも、身体もな。
「俺……」
――なんなら俺が身代わりになってやる。ずっと。そしたらそのうち思うさ。なんであんなに夢中だったんだろうって。
「…………ナオ?」
――俺はお前のことを気に入ってる。大事にする。お前のことを全部から守ってやれる。
「…………ナ」
――俺を選べばそんな顔して泣くことは一生ないんだ。お前は頭の良い男だ。冷静になって考えればわかるだろ? 俺を選ぶことが幸せを選ぶことになるって。
「ナオ? なんで、泣い……てんの?」
――家族だから、兄弟だから、一番距離が近くて、忘れられないだけだ。血が繋がってるから離れられなくて忘れるタイミングがないだけだよ。
「ナオ?」
「……ねぇ、カズ」
――しばらく離れたら、気が付く。あれは熱病みたいなもんだったって。
そんなの冷静になんてならなくたってわかってる。
兄弟で愛し合うなんてこと、しちゃいけないってわかってる。この想いも行為も全部お終いにするべきだって。
知ってるよ。
だから、ほら、ここで言うんだ。
カズ、俺ね、海外にしばらく行くことにした。そんな顔しないでよ。大丈夫、一年か、二年か、向こうで英語を使った仕事に就くんだ。ずっとやりたいことだったんだよ? ねぇ、応援してよ。年末は、ちょっと無理かもしれないけどさ、ちゃんと帰ってくるし。
そう言って笑え。
笑って、ゆっくり、距離を取るんだ。
そして、納得させるんだ。何度も何度も胸の内で唱えるんだ。
そのうち熱が冷めるよ。距離をとって離れてしまえば、この熱は落ち着く。そう。何百回でも自分に言い聞かせるんだ。ほら、早く。
それが一番良いことだ。
正しいこと。
「俺、和紀のこと、好きだよ」
「……」
近親相姦は、ダメなこと。
正しくないこと。
だから、してはいけないこと。
「和紀は?」
「直紀!」
その声に飛び跳ねるほど驚いた。
明弘さんだった。車を道端に止めて、俺をすごい顔で呼んでいる。ダメだって言ってる。それは、ダメだぞって。そこから逃がしてやるからって、怒ってる。早くこっちに来いって、幸せを選べと。
ただの同性との恋愛、非難もされないし、否定もされない関係を。
この、俺たちのしている恋は不幸なことなんだろう。祝福されない。嫌悪しか向けられない。
「ねぇ、ナオ、言ってもいいの?」
「……ぇ」
「ねぇ、言ってもいいの?」
返事をするよりも早く、カズが俺を抱きかかえると笑った。俺は、いきなり持ち上げられたことに驚いて、声も出せないまま目を丸くしながら、咄嗟にカズに掴まった。
「直紀のこと、愛してるよ」
――つーかまぁえたっ!
捕まった。
「逃げよう。ナオ」
「!」
手を繋いで、不幸を選んだ。俺とカズは家の前から、ずっと長く長く続いている細長い公園を駆け抜けていく。
――ナオ兄ちゃん!
「ナオ!」
振り返ったカズはたまらなく楽しそうに、あの頃、日が暮れるまでずっとしていた鬼ごっこをしているみたいに、笑っていた。
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