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第79話 父さん
――俺に、抱かれたいの?
そう訊かれた時、一度でいいからと願った。
――俺のセックスの相手をして?
一度じゃなくて、もっと抱いてもらえると期待をしてしまったら、もうダメだった。
もし、誰かにバレそうになったら、バレてしまったら、俺が弟をたぶらかしたんだと言って、お仕舞いにしよう。そう思ってた。俺の頭がおかしいんだ。兄として人として失格で、優しい弟は家族として俺を助けようとしてくれていただけって。
俺のために――そう言って、カズをかばおうと思っていた。
「…………あ」
カズだ。バスを降りて、うちの前までずっと続く長い長い公園に入ったところにカズがいた。
「……」
制服姿のカズが背中を丸めて、最近ぐっと冷たくなった風を堪えるように、マフラーの中に首を引っ込めながら歩いてる。
寒そうだ。
捕まえたくて、捕まえたくて、けれど捕まえてしまったらいけないとわかっているから、必死に堪えてた。
ダメってわかってるのに、いけないことだとわかっているのに。
壁一枚向こうにいる弟に触れたくてたまらなかった。
「おかえり、カズ」
「……ナオ」
カズに触れたかった。
「ナオもおかえり」
「うん」
「ナオ、寒くないの?」
「んー、そんなに。カズ、寒そう」
「めっちゃ寒い」
手を差し出されて、手を握ると、たしかに冷たかった。思わず「わっ、冷たっ」って呟いてしまうほど。
「なんで? 歩いて帰って来たのか?」
「ちょうどいいバスなくて」
「少し待ってればいいのに」
「めんどくせー、待つの嫌い」
「……我儘」
とても冷たかった手にゆっくり俺の体温が移っていく。掌から指へ、じんわり広がっていく。
「……やっぱり、司にバレてた」
「……」
「バレたら、すぐに俺が悪かったんだって、カズは何も悪くない、俺が気持ち悪いだけなんだって言って、もうお仕舞いにしようと思ってたんだ」
笑っちゃうんだけど、本当にそう思ってたんだ。でも、もう思ってないから、もうそんなこと考えられないから、だから、強く掴まなくて平気だって。
痛いよ。
そんなに手をぎゅっと握ったら、痛いっつうの。
もうどこにもいかないのに。
「やめろって言われた。何回も。ダメだって」
「……」
「司、呆れて、怒ってた……でも」
思わず、涙が零れてしまった。
嬉しかったんだ。司が笑ってたから。怒って、笑ってた。
「……よかったじゃん」
「うん。お前のこと、我儘で生意気でマイペースって言ってた」
「……は? よくねぇじゃん」
俺は泣いて、笑った。
「あいつ、なんなの」
カズは怒って、そして、足元の石ころを蹴飛ばしてから、苦笑いを零した。
「俺の親友だよ……」
一瞬、カズは緊張したんだと思う。指先がまた氷みたいに冷たくなったから。でも、大丈夫だよ。
――ナオ兄ちゃんの手、あったかーい!
――そう?
――ぎゅって手繋いでー!
――いいよ。
俺は手があったかいんだ。いつもあったかくて、やんちゃなカズがこの公園でたくさん走り回っては冷え切った手をあっためてって戻ってきて、俺の掌で暖をとってたくらい。とてもあったかいらしいから。
――ほら、おてて。
「……ん」
喉が渇いて目が覚めた。
「……」
いつの間にか、カズは自分の部屋に戻ったらしい。俺の部屋で、して、それからベッドで二人で過ごして……。
起き上がると少し寒くて、ベッドの下に脱ぎ散らかしたままだったカーディガンを羽織った。それと、カズと二人で過ごす間はお互いに夢中になりすぎて、不注意から踏んづけてしまいそうだから、いつもベッドの下に放り出しているスマホを拾った。
時間は夜中の二時を過ぎた頃だった。
カズを起こしてしまわないように、寝室にいる親を起こしてしまわないように、そっと、そっと足音を忍ばせて、下へと降りる。
そっと……。
「!」
思わずびっくりしてしまった。
リビングは真っ暗だったのに、キッチンにだけ明かりが灯っていて、そこに人影があったから。
「……ぁ…………父さん」
父だった。
仕事から帰って来たばかりなんだろう。警察官らしい濃紺のスーツにまだネクタイも緩めずに、そこで水の入ったグラスをじっと見つめてた。
驚きながら「おかえりなさい」と告げると「あぁ、ただいま」と答える。
その声には疲れが滲んでいた。
今日は、遅番の日じゃなかった。何か急ぎの仕事が入ったんだろう。疲れからなのか眉間の皺が普段以上に深い気がした。
父は、とても厳しい人だった。
記憶の中にいる父は、怖い人、そして、あまり笑わない人、だった。昔から、今も。
「……こんな夜中にどうしたんだ?」
そう問われて、そうだ喉が渇いていたんだと思い出す。水を飲みに、と言うと、父が手元にあったコップを差し出してくれる。冷蔵庫から大きなペットボトルの水を取り出し、注ぐ。その音さえもキッチンに響いてしまうほど、父も俺も無言で、少し居心地が悪い。仕事が仕事だから仕方がないのだけれど、家にいないことの方が当たり前だった。
「父さんこそ、今、帰って来たの? 仕事、忙しそうだね」
「……あぁ、これから年末だしな。年末は色々事件が増えてかなわん」
「……う、ん」
父とは、距離を置いていた。
昔からだ。
小さい頃から俺は父とはあまり接したことがない。
仕事柄、でも、それだけが理由じゃない。
大昔、父に言われたことがある。あれはとても小さい頃だった。それでも覚えてる。ある日、尋ねたんだ。とても素朴な疑問だった。
――パパのおしごとってどんなおしごと?
って、そう訊いた。
「なぁ、直紀」
「はい」
父は、こう答えた。
「最近、和紀と何かあったのか?」
悪い鬼を捕まえるお仕事だよ。そう言われたのを良く覚えてる。
「直紀……」
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