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和紀視点 3 楽しそうな人
ナオのアパートの鍵は持ってるんだ。
ナオがここに引っ越した日、渡された。
――それ、持ってて。
嬉しそうに顔を綻ばせながら、銀色のそれを俺の手の中にナオが置いて。
――ここの鍵。カズ用の。
そう言われた俺は、嬉しくて、たまらなく嬉しくて、銀色のそれを握り締めながら、ナオにキスをした。
「うーん……なんかねぇかな」
そうぼそっと、ぼっちの部屋で呟いて溜め息を一つ。
今、俺はバイトを探してる。ナオにも内緒で。言えばきっとそんなの探す必要ないだろって言うだろうから。自分はバイトに課題にって忙しいくせに、きっとこういう時だけ兄貴ヅラをするに決まってる。
俺を大事にしようとする。
「……」
弟で、年下な俺を。
けど、俺も貴方が大事なんだってことをわかってない。あの人は全然、マジでわかってないんだ。自分がどれだけ――。
「……雨」
テーブルに突っ伏していたら、雨の音が聞こえた。夜、降るかもしれないって言ってたけど、もう少し遅い時間のはずだった。そのくらいの時間なら、今日、大学のサークルの飲み会が終わる頃にはまだ降ってないって思ったのに。
「降ってんじゃん」
スマホにナオから連絡はなかった。けど、窓を閉めてても音が聞こえるくらいには降ってる。そんで。
「傘、持ってってないのかよ」
ワンルームの部屋、玄関の方へ顔を向けるとナオのタータンチェック柄の傘が傘立てに残ってた。
雨が降ってて、傘を忘れてる。それなら仕方ないだろ。
――ナオ、雨降ってるけど、傘持った?
そう一応は連絡を入れてから、返事を待つことなく、こっそり見ていた求人情報誌を自分の鞄にしまうと、それはそのままにして部屋を出た。
外に出ると、ほら、雨がすごいだろう? とでも言うように、目の前を通り過ぎた車が水溜りを踏みつけて、見事な水しぶきと雨音を立てた。
鍵を閉めて、傘を一本手に取り駅の方へと歩き出す。
ガキみたいだろ? 好きな相手の行くとこ全部について回りたいなんてさ。それこそ、兄であるナオの後ばっか追いかけてたガキの頃の自分のまんまだ。でも、本当はどこにだってついて行きたい。あんな人、いつどこでさらわれるかわかんねぇだろ。男でも女でも、あの人を欲しがる奴はたくさんいる。
駅前は予定よりも早く降り出した雨に戸惑う人と、迎えの車の列のおかげで混雑していた。
次々に駅から降りてきた人が乗り込んでは出発して、その空席に次の車が滑り込んで、を繰り返す列。その列に並ぶ一台から降りてきた人。
「すみません。ここまで送ってもらっちゃって」
そして、車中の誰かに向けて、綺麗な笑みを向ける人。
「……いえ、ここで大丈夫です。ちょっと買い物したいんで」
ナオだ。
「ありがとうござ、」
雨の中、車で送ってもらって、肩を濡らしながら丁寧に挨拶するその人が急に雨が傘で遮られたことに、一瞬だけ目を丸くして、そして、俺を見上げてふわりと微笑んだ。
「うちの弟です」
うちの、だってさ。
車中の男にどうかしたかと訊かれて、そう答えたナオがまた腰をかがめて一礼した。
「迎えに来てくれたので」
俺の、ナオ。
「こんばんは」
運転してた相手を確認しつつ俺も頭を下げた。運転してたのは男だった。見てくれはまぁまぁな、その男はただの弟だと思っている俺に小さく会釈をする。俺がナオとこの男の間を遮断するように車のドアを閉めると次の車にじりじりと後ろからにじり寄られ、急いでその場を後にした。
「迎えに来てくれてありがと」
「……」
「雨、降るの予報よりも早かったな。まさかこんなに大降りになるとはさ」
「……」
「さっきのは同じサークルの先輩」
「……」
「カズ? むくれてんの?」
「……」
「他の人も送ってもらってたって」
「知ってるよ」
さっき挨拶がてら相手の顔を確認しておこうと覗いた時、後ろの席に二人乗ってるのを見た。女が一人、男が一人。だから急に降り出した雨に車で来ていたあの男が送れるだけ送ってやったってことだろ?
「でも、助手席にナオを座らせた」
「……それだけでむくれてんの?」
「あぁ、それだけでむくれてる」
わかってるよ。駅まで送ってもらったのだって。
「駅まで送ってもらったのは、うちのアパートの場所を知られたくなかったからなのに?」
まるで俺の頭の中を見たかのように、ナオは俺の考えていたことをそのまま言葉にする。わかってる。ナオが駅でおろしてもらった理由がそれだなんてわかってる。買い物があるのなら、きっと弟の俺に頼むだろ? 店がやってる時間帯に買い物を済ませておきたいと連絡してくるはずだ。
それをせずに駅で買い物があるからとおろしてもらった理由くらいわかってる。
それでも、むくれるもんはむくれる。
例え、もしもあの車で送ってもらうのが。
「もしも、あの車で送ってもらうのが俺一人だったら乗らないのに?」
もしも、あの車で送ってもらうのが一人だけだったら、ナオは断っていただろうって思っていても。
「むくれるの?」
「悪いかよ」
――ほら、カズ、これもあげる。食べたいんだろ? にーちゃんのあげる。
「全然。悪くないよ」
――あげるよ。カズが食べていいよ。このクッキー。
「傘持った? って、連絡だけして、返事をしても既読マークつかないし」
――あはは。いいってば。カズが食べな。
「無視?」
ポケットに突っ込んだままだったスマホを見ると、ナオから返事が来ていた。「傘持ってない。迎えに来て」そう返事があった。
「今既読付いたし」
笑いながら、ナオが自分の鞄の中から傘を取り出した。折り畳み傘。そして、クスクスと悪戯を楽しむ子どもみたいに笑って、俺が持ってきたタータンチェックの傘から逃げ出すと、自分の持っていた降りたたみ傘を差した。
「帰りの電車の時刻をスマホで調べたら人身事故な何かで延滞ってなっててさ」
雨音がすごいから、少しナオが大きな声で教えてくれる。楽しそうに水たまりを避けつつ、踊るように歩きながら。
「そしたら帰りが遅くなるだろ? 今日もカズが来るって言ってたし」
その横を車が通りすぎる度に、貴方のことを行き交うライトが照らしてる。
「早く会いたいから、遅れてる電車に乗るより、先輩の車に乗っけてもらったんだ。傘は、さ……」
子どもみたいにはしゃぐ貴方を。
「傘は、持ってたけど、持ってないって嘘ついたら、カズが迎えに来てくれるかなぁって思いながら」
「……」
「今日はついてる」
「なんでだよ」
せっかちな雨のせいで皆が不機嫌顔で、慌てた車の水しぶきにも怪訝な顔をする人ばかりの中、ナオは笑って、楽しそうで。
「だって、妬いてる時のカズってさ」
「……」
――カズの考えてること、にーちゃんは全部知ってるんだから。
全部、知ってる? 今、俺が思ったこと全部。貴方が誰か知らない男に送ってもらったことを、たとえ同乗者がいたとしたってムカついてることを。傘を持って迎えに行くフリをして、貴方に早く会いたかったことを。そして。
「激しいから」
雨に楽しそうに濡れるこの人を早く独り占めしたくてたまらない、俺のことを。
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