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一、吉夢
季節は夏の終わり。中秋の名月前の空は、残映しかり朧朧する月が淡く輝きを増し、風はだんだんと冷たくなり、夜の時間に支配され出す。
枯れ葉を踏む音が、空に響くのが心地良く感じる季節だ。
だが季節の変わり目を楽しむ前に、終わらせないと行けない仕事が山のように積み重なっていた。
窓の外を眺めながら、留守を頼んでいた家の者からの連絡を聞く
「分かりました。すぐに向かいます」
受話器をもとの位置に戻すと、男は片手で双方の目頭を押さえ小さく嘆息する。
そして時計が十八時になると同時に立ち上がり、自分の鞄を掴むと廊下へ向かって歩き出す。
「すみません。定時で上がらせていただきます」
「いいよ。また遭難者?」
白狼の上司にあたる部長が、椅子を回転させながら呑気な声で手を振る。
「そうみたいです。部長も残業しないで帰ってください」
切れ長の、ナイフのように鋭利な瞳で諫めるように言うが、飄々した部長は否定も肯定もしなかった。
これは絶対残業するつもりだ、とすぐに察した。
部長の頑固さはよく知っている。これ以上言っても仕方がないのも承知の上で苦言を呈したまでだ。
部長の激務も気になるが、白狼にはしなくてはならない役目があった。
「部長、ほどほどにですよ」
念を押したが、どこ吹く風と言わんばかりの返事が返ってくるのみ。
広い廊下に飛び出し、腕時計を見ながらこれからのタイムスケジュールを決めていく。これ以上仕事が増えたら何かを犠牲にしなければいけない。だが、今抱えている仕事は、全て白狼しかできなかった。
エレベーターで一階に降り、入り口に立っている警備員に社員証を見せながら、出ていく。
「ご苦労様です。お先に」
警備員に微笑んだつもりが、なぜか敬礼されてしまい自然と苦笑いが浮かぶ。それすらも怖かったのか、警備員の顔は青ざめている。
「貴方の顔は、そうそう忘れないので、毎回社員証見せなくてもいいですよ」
早く出て行ってくれと言わんばかりの対応に、白狼は素直に頷く。どうやら自分は眼が鋭利すぎて怖いらしい。自覚があるので慣れた反応だ。
今出てきた建物を見上げ、茜色に染まりつつある空を見る。
大和白狼。環境庁の特別任務を請け負う人外交流課に務める二十八歳。
特殊な課なために、他の課との交流も制限されている。
仕事が特殊なだけで、白狼は普通の一般人、だと自分では思っている。
そのため、少し寂しくも感じる仕事場を見上げ、今日もため息を吐くのだった。
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