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第五章 お月見泥棒 一
「……白狼」
気づけば、自分の頬が熱いのに気づく。頬を指でなぞれば涙が伝っているのに気づく。
「ああ、そっか」
心や体で嘘を吐こうとしても、目の前の相手にそんな自分を見られるのが嫌なのか。
「蘇芳さん」
心配げに顔を覗き込む白狼の、その柔らかい目が嫌いではない。寧ろ、手に入れたくて手に入らなくて悲しくて、涙がこぼれる。何に泣いているのか、気づけない。気づかない。けれど白狼はその涙のわけを知りたがっている。
「ゆっくりでいい。今は、それでいい」
落ちた花をもう一度拾い、再び蘇芳の耳にかける。不思議な、今まで知らなかった甘酸っぱい熱がのどに広がり、涙とともに零れる。
「白狼って、馬鹿だね」
馬鹿な人だ。面倒ごとから逃げずに真正面から立ち向かう勇者みたいな人。
蘇芳は兄がどうしてここを目指すように言ったのか今なら分かる。そして必死で否定しようとした。
惹かれていく自分を否定する。それは無駄な感情なのだと蓋を上から閉めて押さえつける。
庭を駆けずり回っていた珊瑚が、蝶に釣られて二人の元へ戻ってくる。その珊瑚に蘇芳は両手を伸ばすと、躊躇なく抱き着いてきた。感情を消すように、少しだけ唇が震えたが真実を告げた。
金色の美しい毛並みをした珊瑚の秘密。
「さっきの暁って人の話は本当だよ。珊瑚は父親が人魚なんだ」
浜辺に流れついて兄と恋に落ちた人。兄の気持ちを乱して、心も体も奪った人。
魅力的で、自信家でどの角度から見ても、彫刻で掘られたような綺麗な顔をしていた。
「だから綺麗な声で鳴くでしょ?」
「そうか。蘇芳さんの方が綺麗だから気づかなかった」
気づかない素振りをしてくれる良い男ぶりに苦笑した。完璧すぎる人だ。
「人魚ってさ、不老不死って言われてて、優しかった兄さんの恋人が自分の血を兄さんに飲ませたんだけどね、……兄さんも生んだ瞬間死んじゃったらしいから僕たちには人魚の血は効果がないんだ」
よしよしと背中を撫でると、蘇芳たちの会話の意味が分からない珊瑚はきょとんと二人を見ながら目を細める。だんだんと眠ろうとしているのが伺える。
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