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第五章 お月見泥棒 二
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『可愛い私のソヒ。大丈夫だよ、私は人魚だから』
兄の愛する人は、言葉巧みで。お伽話にも登場する人魚だと言われ兄が絶望の中、手を伸ばしてしまうのは仕方のないことだった。
『私の一族は、人魚の末裔。こうやって偶に金のない人間から血を狙われるが、私たち一族の血を飲めば寿命が延びると言われている』
イアフの一族が今の伯爵位を持つ地位で、王族とも縁深く、人々に慕われている理由は『人魚の血があるから』という。
兄は『本当……?』と声を震わせて驚いていた。
『ああ、そうだよ。だから君の運命を覆すためにきっと私はここに流れ着いたんだろうね』
兄は恐る恐る手を伸ばす。もう一度、おぼろ雲から月が顔を出したとき、淡い月あかりの下、兄とイアフはまるで一つに溶け合ったかのように抱きしめ合っていた。
兄は運命を恐れて、情事の時はいつもイアフの首筋を噛んでいた。小さく噛んでいるとイアフがナイフで体の一部を刺して、血を飲ませていた。
イアフは自分の血に、圧倒的な信頼の自信を持っていたし、兄もそんなイアフに惹かれ、そして彼を信じて運命に抗おうとしてくれていたんだ。
「普通は生まれた子は、紅妖狐の容姿を色濃く受け継ぐんだけど、珊瑚は特別なのかな。半分人魚だからかな。……父親の人魚に容姿が似てるんだ」
兄はイアフの血を飲んでいた。その血は巡り巡ってお腹の中の珊瑚に吸収されたとしたら。人魚の血が入っていれば、もしかしたら死なないかもしれない。呪縛のような運命から解放されるかもしれない。
蘇芳は自分のことはもう運命を受け入れているので兄の子どもである珊瑚だけは守りたいと思っていた。
「イアフさん、あの人もちょっと怖い人だけど、珊瑚を閉じ込めたひどい人だけど、兄さんを愛してたからであって、……悪い人ではないんだよ」
珊瑚を抱きしめながら、兄の夫を思い出す。身震いする。
深海の底から湧き上がってくるような恐怖もある。
けれど兄の幸せそうな顔を思い出すと、それは自分だけだったのもわかっている。
「蘇芳さん、……やはり俺はじっとしてはいられなくなりました」
「え?」
「今から仕事場に行ってきます。人間より長生きしてる部長に助言を求めてきます」
「お仕事行っちゃうの?」
少し拍子抜けした声に、白狼は神妙に頷く。人魚云々の説明に対して『仕事に行く』と返事が返ってくるとは思わず、戸惑いを隠せない。
「ヒナさんを呼びましょう。お菓子の詰め合わせを手伝ってくれるはずです。女性の方が子供の扱いは慣れているはずです。マリも呼びますね」
「うん……」
知らない人が来るよりは、白狼がずっと傍に居てくれた方がいいのだけど我儘は言えない。この人は今、蘇芳のために何かしようと使命感で燃えている。
「そうだ。珊瑚くんと蘇芳さん、いってきますというので、頬にキスしてくれたりしますか」
自分で言っておきながら白狼が真っ赤に頬を染める。
「もちろん、いいけど」
「じゃあこれから一生お願いしますね」
人差し指で頬をトントンと叩く。おねだりにしては格好良くてずるいな、と思わず顔がほころんだ。
抱きかかえた珊瑚を押し付けて、舌でぺろぺろ舐められた後、白狼は蘇芳の唇に届くよう少し身体を傾ける。その仕草が愛しくて、蘇芳が口づけたのはもちろん唇だった。 白狼が糊の効いたシャツに皺ひとつないスーツに裾を通し、頭に包帯を巻いて帽子をかぶり二重で耳を隠しつつ出勤していった。
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