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六章 兄の恋人 三

 運転席でニヤニヤと笑う暁は、いつものふざけた様子だったが違和感がある。面倒くさがりで綿菓子のようにふわふわと信念もないいい加減な奴だ。だが親ともども世話になっている大和家に反旗を翻すようなやつでも、人の命に係わる悪ふざけをする奴ではない。面倒くさいことや責任がある仕事は絶対にする人間ではない。  暁を睨みつける。暁は笑いつつも冷めた瞳で白狼を見ている。  埒が明かないと後ろの蘇芳のもとへ行き、ドアを叩く。が、蘇芳は真っ青な顔で微笑んでいる。 「蘇芳さん、開けなさい。ここを開けなさい」  窓ガラスを割ってでも止めようと暴れる白狼に、蘇芳は首を振った。  ***  Side:末摘 蘇芳 「イアフ、話なら白狼と一緒じゃだめですか」  窓ガラスを壊す勢いで叩く白狼を見て胸が痛くなる。  運転席で暁が面白そうに笑っているのも不快だった。いきなり現れて、自分を拉致しようとしているイアフに恐怖もあるが一番は白狼を巻き込みたくない気持ちが大きい。  権力もある、地位もある、見た目のおかけで人望もある。白狼は人望はあるものの、彼をよく知らない場合、見た目で恐怖を与えてしまうようだ。 「彼はいい人ですね。君に騙されてこんなに必死になって助けようとしている」 「うん、白狼はきっと世界で一番いい人だよ」  言わずもがな。自分のことでもないのに誇らしげにそう伝えると、イアフは目を細めた。 「可哀そうに」  わざとらし気に大きなため息を吐く。 「彼は、私のように愛しい人の死を目の当たりにして、心を壊すのでしょう。私が愛を注いで孕ませたせいで。自分で自分の愛する人を殺してしまう。かわいそうに。かわいそうだよ」  何度も何度も、何度も呪文のように美しい声でイアフが言う。  可哀そうだと、白狼は可哀そうだよと、頭の中で渦を巻いて脳を支配してくる美しい声。 「泣いても愛する人は生き返らない。愛してると囁いても、返事が返ってこない。触れたくても冷たい亡骸しかない。かわいそう。彼を私の二の舞にするんですが、スオウ」  白くて長い手。白狼と違い、長く美しい手が蘇芳の手を掴む。 「私は、ソヒの弟の貴方も愛してします。貴方が死ぬのを許せないでしょう」  掴んだ手ごと胸に引き寄せると、頭を撫でた。頭の中に何度も跳ね返って甘い余韻を残す不思議な声だった。声に酔わされる。 「スオウ。誰かを傷つけることはもうやめて。私が一生大切にしてあげるから、誰かを悲しませるのはやめてあげなさい」  頭を撫で、耳を撫で、顎を指先で撫でる。心地がいいと感じるのは、蕩けんばかりの優しい声のせいだろう。 「世界中の美味しいもの、綺麗な宝石、高級な衣服、君が見たことのない美しい風景。私が全て用意してあげる。ほしいものすべて用意してあげますよ」  私の可愛いスオウ。  酔わされ、思考を奪われる。操られる心地よさ。それにイアフが全く嘘偽りなく言っているのが分かる。蘇芳が望むものすべて捧げてあげられると自信満々に声が言っている。 「イアフさん、とりあえず外の白狼が可哀そうだから車を発進させていいっすか?」

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