69 / 168
六章 兄の恋人 四
イアフの声に流されそうになっていた意識が、ふと覚める。
すると車を壊さんとばかりに叩く音と白狼の声が聞こえてきた。
「僕……あの、ごめんなさい」
外に飛び出そうとするが、両手を捕まえられた。
「イアフ」
「君は死んで終わりでも、あの真面目な彼は一生苦しむよ。それでもいいの? スオウはいい子でしょ。愛する人を悲しませていいの?」
そのまま押し倒されると、逃げ出そうという意思を奪いたいのか巻いていたストールを剥ぎ、スカートの中へ手を入れた。
一瞬だけ恐怖で身構えたが、兄との逢瀬を思い出すと、色気も何もないただの脅しだとすぐに気づけた。
「アカツキ、行きなさい」
「ほーい。SPと佐奇森さんたちごめんよー」
車の外で慌てているSPと車を奪われた大和家の人たちも騒いでいたが、白狼が「近づくな」と叫ぶ。蘇芳の太腿を撫で上げながら、スカートをたくし上げるイアフの動きに、白狼が他の物を遠ざけたようだった。
「蘇芳さんっ」
地響きのような大きな声。美しいイアフの声より必死に自分の名を呼ぶ白狼の声にうっとりと目を閉じる。
優しく体に触れるイアフの手は怖くない。冷たい指先はひんやりしているが、恐怖は感じられない。ただ、海に溺れていくような、体温を全て奪われていくような凍てつく指先だった。
「イアフは兄の代わりに僕を抱くの?」
「可愛い私の義弟。抱かないよ」
白狼が見えなくなると起き上がり、両手を上げた。
「君はソヒの身代わりにならない」
「白狼が傷つかないように、僕の運命を壊そうとしてるんだね」
乱れた服を整えながら、蘇芳は苦笑する。
声で操ろうと思えば操れたはずだ。だがパフォーマンス程度で操ろうともせず、白狼を遠ざけるとすぐに手を離した。
横顔のイアフを見ると、以前の自信にあふれた笑みは変わらなかったが、あんなに透き通って宝石のように輝いていた翡翠色の瞳が涙で濁ってしまっていた。
「イアフは、自分が兄さんを殺したと思ってるの?」
磨かれることもなくなった宝石。泣くこともなく濁っていく翡翠色の瞳に手を伸ばすと、イアフは唇だけ笑う。
書籍の購入
ともだちにシェアしよう!