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六章 兄の恋人 五
思い出すのは、珊瑚が生まれた直後だ。兄の死に、壊れたように泣くイアフは珊瑚を一度も抱きしめてあげなかった。珊瑚が泣いても、兄の亡骸の前から動こうとしない。
『なんでイアフが泣くの。兄は、高貴で最高の人魚の血と紅妖狐の血を残した。誉な事でしょ』
驚いて目を見開くイアフに、僕は泣きながら兄の冷たくなった頬を撫でた。
『イアフは何も思うことはないよ。これが運命なのだから』
兄が命を散らせた。悲しいことでもない。愛する人の子を産めたのだから。
『今は愛しい人との思い出を大切にしてください。珊瑚は私が世話しましょう』
泣いているイアフに、白翁が提案するとイアフが叫んだ。
『お前たちはおかしい。狂っているのか』
そのまま泣きながら珊瑚と兄を連れ去ってしまった。珊瑚を抱くことも世話もせず、兄が眠る棺桶に抱き着きただただ泣いていた。
***
「僕はイアフの方が狂ってると思うよ」
「奇遇だね。私も君の生き方を美徳とも思わないよ」
互いに探るように見つめ合っていたが、暁が情けない声を上げる。
「イアフさん、とりま何処に向かえばいい?」
気づけばビルの山の中。銀山の屋敷とは違い、騒々しくにぎやかだ。沢山の人間が、それぞれの好きな色の服に身を包み、買い食いする子どもや仕事途中のサラリーマン、犬の散歩をする老人と溢れかえっている。
「耳や尻尾があっても気にされない場所と言えば、遊園地、個室のレストラン、私の所有するマンション。さあ、どれがいい」
「遊園地かあ。本の中でしか見たことないなあ」
「ソヒも最初から最後まで目を輝かせ、感動で身体を震わせていたね」
じゃあ遊園地にでも行こうかと、簡単に暁に指示してしまう。
蘇芳には全く行きたい気持ちはない。
「悪いけど、行くなら白狼だよ。僕は貴方と行かないよ」
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