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六章 兄の恋人 十一
バクバクと破裂しそうなほど大きな心臓の音が今日はなんだか妙に心地が良い。物足りなさはあるけれど、好きな人の好きなことを一緒に体験するのは悪いことではない。
部屋の隅の、途中のまま放置してある段ボールを見ながら、心臓の音のゆりかごが心地よくて、蘇芳も気づけば眠っていた。
***
『どうして文字を読まないといけないの』
朝ごはんの後、白翁が人間に借りた教科書というものを開き、同じものを蘇芳たちにも持たせ、読み聞かせをした。文字を読めるようにと教えてくれていた。
『人と交流するのに最低限の学力は必要ですよ』
『えー。僕もお兄ちゃんも結婚して子どもを産むだけが役目なのに』
それよりも外で蝶を追いかけて、白翁の膝の上で寝転んで、人がお供えしたご飯を食べて、好きなだけ眠る。
『蘇芳はおバカだな。それじゃあ子どもを産む役目すら果たせないだろう』
『なんで?』
兄は咳払いし、白翁の方を見た。白翁も頷き背中を押してくれたので、自信満々に答える。
『相手に好意を伝える手段は、多い方がいいんだよ』
態度だけじゃ分からない。言葉だけでは信じられない。表情だけでは見逃してしまう。
だからどれも大事にしなくてはいけないよと。
『蘇芳は僕より綺麗なのに、ちょっと抜けてるから心配だよね』
大丈夫かなって苦笑する兄。
けれど、目を覚まして起き上がってみれば、先に居なくなっていたのは兄の方だった。
「あれ、白狼?」
熱いぐらいだった白狼の体温が消え、遠くからシャワーの音が聞こえてくる。
珊瑚を見ればミルクをもらったばかりのようで哺乳瓶を持ったまま気持ちよさそうに眠っている。
「……僕は愚直かもしれないけど。兄や白狼の方が真面目だから心配だよ」
今日は一日離れないって言ったのを破った白狼をお仕置きするために、縁側を歩きながら蘇芳色の浴衣を脱いでいく。自分の抜け殻を落としながら風呂場にいる愛しい白狼のもとへ。
言葉と態度と表情だけではまだ足りない。あの手の奥手な狼には行動が一番なのだから。
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