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七章 六

 *** 「すっかり眠ってしまった。白狼ってば起こしてくれたらいいのに」  うどんを茹でる白狼の横で、頬を膨らませた蘇芳が珊瑚にミルクを飲ませている。マリは冷蔵庫から卵を取り出し、殻を割る。慌ただしい昼の準備に、白狼は気まずげに咳払いをする。 「すまない。あまりに三人の寝顔が可愛いから、見惚れていたら自分も眠ってしまった」 「まあ。お兄ちゃんったらキザってやつだねえ」  卵を混ぜながら、兄の周りを跳ねるマリに首まで真っ赤になる男は、気障の称号はまだ早いようだ。 「かしわと卵とおネギさんのおうどんかあ」 「かしわ? ああ、鶏肉のことか」  鶏肉とねぎを玉子で閉じ込めて、うどんの上に載せただけだったが、蘇芳の尻尾が大きく揺れている。どうやら鶏肉は好きなようだ。 「美味しいよねえ」  ふうふうと息を吹きかけながら、頬に手を当てて本当に美味しそうに食べる姿。  これは昨晩、妖艶に人の上に乗ってきた相手と同一人物か不思議になる。 「蘇芳さん、暁の件だが、あいつは」 「大丈夫だよ。あんな全身怪しい奴、近づかないよ」  先回りされた返事に安堵しつつも、あの執着に不安は消えない。 「イアフさんのことだが」 「分かっているって」 「いや、その、俺の勝手な印象なのだが」  ミルクを飲み終わった珊瑚は、うどんを食べているマリに遊んでほしそうに周りをくるくる動き回っている。その二人の様子を見ながら、胸が痛む。 「なぜイアフさんは大事な息子より蘇芳さんのことしか聞かなかったのだろうか。自分の我が子を心配しないあの人は、信用できない」  ちゅるんと音を立て美味しそうにマリが最後のうどんを飲み込む。  それを優しいまなざしで蘇芳も見ながら頷く。 「……あの人側に白狼はなるかもしれないのに、分からないんだ」  納得できなかったが、彼には彼の信念があり、覆すことはできないように伺えた。綺麗な顔で、愛する人のために狂気を起こす。それほどまでに彼が蘇芳の兄を好きだったのだと理解できた。 「蘇芳さん」  自分のうどんを手に持ち台所から蘇芳の横へ座る。が、蘇芳は白狼から逃げるように横にずれた。 「僕、あの人、とてもやさしくてきらきらしてて好きだったから、今は怖いんだ。兄が死んでから、きっと心が壊れちゃって……」 「俺は!」  うどんが器から飛び出すほど、大きな音を立てて拳を机に叩きつけた。  蘇芳が驚き目を見開くので、小さく謝る。  自分は死ぬつもりもないし壊れないと伝えたところで、今の彼には耳から耳へと流れてしまう安っぽい言葉だろう。  現実は、『何も運命から打破できる予兆はない』上に、『人魚の血を持っても運命からは逃れられなかった』のだから。 「……心配ない。今はそうだが時間が経てば、彼もきっと」 「彼は時間があるもんね。僕たちより何十倍も生きるって。でも僕は、ないよ。白狼の隣に居ても、短い時間が砂時計みたいにババーって流れていくんだ」

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