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八章 七
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脱衣所の前でドアを叩こうとしたら中から甘いお香の香りがして眉をひそめた。
「ヒナ、開けるぞ」
ドアを叩くと「どうぞ」とクスクス笑う声。
勢いよく開けると、まるで視界が桃色に染まるような甘ったるい匂いが充満していた。
「なんだ、これは。蘇芳さんは」
「神様ってさ、八百万いるんだったらどうせならどんな悪戯も幸せの魔法にかえてくれたらいいのにって思うんだよね。例えば村人を驚かせようと一晩で大きな穴を掘るとするでしょ? そうしたらその穴から水が沸き上がり枯れていた田んぼを潤したり、とか。自分が一目惚れしたからその子を人間の姿にしたのに愛されなかった? だから呪うなって傲慢もいいことじゃないかい」
トンっと小粋に小鉢に煙管から灰を落とす。甘い香りはヒナの煙管からだった。
それだけの仕草に、目が離せなくて気づけば追ってる。くらりと眩暈にも襲われる。
一人でいると気落ちするので、そんなときは自信に溢れたヒナの話を聞くのも悪くない。そう思い任せていたが、蘇芳も安心してヒナの膝の上で丸くなっている。精神的にやはりつらかったのだろう。獣の姿に戻ってしまったようだ。視線だけを動かして周りを見ている。
「ヒナ、その香り、止めてくれないか。蘇芳さんはどうしてるんだ」
「あら、これは煙草じゃないのよ。ちょっと特殊な、……ねえ」
含みをもった笑みに怪訝そうな顔をする。が、奪い返すように蘇芳を片手で抱きかかえ、胡坐をかくと自分の膝の上に乗せる。
すると紅妖狐の姿で起き上がり、後ろ足で耳を掻きながら蘇芳が口を開けた。どうやら獣の姿でも喋れるらしい。
「僕は大丈夫だよ。酒造はもう一度行くの?」
「いや、猫田部長は俺にあのことを見せてくれようとしたらしい」
「あのこと?」
「酒造の御当主は神と結婚されていて、間違いなければ子もいた」
「……へえ」
目を見開きながら白狼を見る。
「色んな可能性が溢れている。目の前で見たら、その奇跡を信じたくなった」
蘇芳の背中を撫でながら、白狼は頷く。
「俺は元々狼の血を受け継いでる。それを誇りに思っているから、耳や尻尾が消えなくて、人間世界で生活できなくてもここがある。山を守る選択肢もある。父と同じく人外の住みやすい環境を作り上げたかったが、それももう仕方ない」
蘇芳を抱きかかえて、ぎこちなく微笑む。
「ここに怯えて震えている美しい狐がいる以上、そちらが優先だ」
「……まあまあ王子様みたいな台詞だこと」
ヒナは唇の端を上げて、到底笑っているように思えない顔を白狼に近づける。唇が当たる擦れ擦れまで顔を近づけるが白狼は落ち着いている。
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