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十三章 三

 *** うららかに晴れた春の日に吹くは花信風。凍て解け、柔らいだ大地から草木が顔を出し、木の芽時。  透明な炎のような揺らめきが地面から揺蕩うように立ち上り、珊瑚が追いかけ跳ねまわる。  蜃気楼のように、近づけば遠ざかる。振り返れば、何もない。確かなものをこの手に掴めるとは思っていなかった。 「それは陽炎だよ」 と伝えるが、意味はわかっていない。少しして縁側にいた蘇芳も、陽炎を追いかけ跳ねまわる。 桜の中、静かに空を見る君。獣の姿でも、燃え盛るような真っ赤な瞳は美しく、煌き輝く毛並みは、風に浚われると息を飲むほどに優美だ。   銀山での初めての春だった。珊瑚は庭を駆け回り、体中を桜の花びらだらけにして帰ってくる。  蘇芳は縁側でその珊瑚を見て、時には混ざり時には関心も持たず毛繕いする。  が、白狼が両手を広げると、独占欲全開で抱き着いてくる。  獣に戻った蘇芳は、白狼の言うことを理解はするが、喋れなかった。記憶はあるのだろうが、已然の蘇芳のように自分からは甘えてこない。  ただ夜になれば寝室を抜け出し、変化の練習をしているのを白狼は知っていた。  夜桜の下、美しい獣は空を見上げて何度も啼いた。 何を思い桜を見上げ、空を追う。獣の姿では言葉の意思疎通はできない。だからこそ、相手が何を考えているか、想像しお互い恋しく思ってしまう。 「やめて、マリを食べないで――っ」 珊瑚は、春の陽気にやられたのか、狐は春が発情期なようで、マリを追いかけまわし覆いかぶさろうとする。抱きかかえて、ベッドに乗せて苦笑しながらも、白狼は頭を撫でた。 「本当に大切な人ができた時のために、我慢しなさい」  理解したのか、大人しくベッドの中で丸くなる。 蘇芳が小さく悲し気に鳴くので懐に入れ、一緒に散りゆく桜を見た。焦らず、君のペースで。愛情は、この桜のように散りはしないのだから。 葉桜に変わるころ、桜色の絨毯の上で、蘇芳は寝転び空を見るのが好きだったのか、絨毯が雨で流れてしまうまで、毎日花びらの中に埋もれていた。

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