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十三章 六
それは音のない日だった。
叫び声を聞いた。目を覚ますと辺りから音が全て奪われていた。木々の揺れる音も、小鳥の囀りも、珊瑚の寝息さえもない。
音の消えた日。けれど恐ろしくない。気持ちも静かで、何も恐怖はなかった。
ただ叫び声が聞こえてきた。その叫び声は、雄叫びにも聞こえ、やがて泣き声に収まった。
布団を脱ぐ音も、畳を足で踏み走る音も、襖を開ける音もしない中、蘇芳の泣き声だけ聞こえてきた。
「白狼っ 白狼、白狼っ」
春、夏、秋、冬、君を待っていた。
「白狼っ」
ふわふわの尻尾が、音も風もない中、揺れている。
「白狼!」
知っている言葉は、まるでそれだけのように。たった今産み落とされたような、白い肌。真っ赤ない色打掛を肩にかけ、木の下で座り込んで泣いている。
その美しい、太陽の下できらめく髪。愛らしく小さい、真っ赤な唇。長い睫毛は頬に影を落とし、大きな目から大粒の真珠を流し、燃え盛る紅色の瞳が燃えている。
蘇芳という、世界一愛しい色が、今、鮮やかに咲いた。
「蘇芳さん」
「白狼」
色打掛ごと抱きかかえると、風が吹いた。打掛を浚っていく風。
「帰りましょうか」
「うん」
「この着物で、結婚式をあげなくては」
「うん、でも」
蘇芳の手が、白狼の首に巻き付いた。ぎゅっと、離れたくないかのようにきつくきつく、抱きしめる。
「ここじゃないよ。見つけてくれたのは嬉しいけど、ちゃんと目が覚めてから」
重ねてきた唇は、温かくそして甘い。静かで穏やかな、朝だった。甘い匂いがする。
以前、蘇芳が言っていた気がする。紅妖狐は、発情期に雄を誘う甘い香りを放つと。
目が覚めると、クスクスと笑う蘇芳の顔があった。
「おはよう、白狼。僕の方が先に目覚めちゃったね」
庭で珊瑚が、喜びで走り回っている。
「あのね、白狼の愛が足りなかったから時間がかかったわけじゃなくて、人間に化けるのが難しくて。尻尾と耳は消し方わからなかったので諦めたんだ」
白狼の寝顔を覗き込む蘇芳は、恥ずかしそうに耳と尻尾を指さした。
「……蘇芳さん」
「それでね、紅妖狐はここに仮腹ができて、注がれると子ができるんだ。その性質も残したくて――」
言い終わらないうちに、白狼は抱きしめた。細く壊れてしまいそうな、繊細な蘇芳の身体を、抱きしめる。
叫んだ。叫びは、山全体に広がり、雄叫びに変わると泣き声で落ちていく。
(ああ、そうか。夢の中の泣き声は、俺だったのか――)
夢の中で数分先の自分を見た。夢でこの日を垣間見たいと強く強く願うほど、この日を待っていた。
背中を蘇芳にさすられながら、白狼は泣いていた。
その声で、蘇芳が戻ってきたのだと全部の山に住む人外や動物に伝わったのだろう。皆が集まる中、蘇芳に色打掛を身に纏わせ、抱きかかえた。空は、白狼の涙を表す様に、晴天なのに雨が降った。
「あは、狐の嫁入りだね」
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