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十四章 四
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季節は夏の終わり。中秋の名月前の空は、残映しかり朧朧する月が淡く輝きを増し、風はだんだんと冷たくなり、夜の時間に支配され出す。
枯れ葉を踏む音が、空に響くのが心地良く感じる季節だ。
「分かった。すぐに向かうから、頼むから動かないで。いいか?」
受話器をもとの位置に戻すと、白狼は片手で双方の目頭を押さえると小さく嘆息するそして時計が十八時になると同時に立ち上がり、自分の鞄を掴むと廊下へ向かって歩き出す。
「すみません。定時で上がらせていただきます」
「いいよー。蘇芳さん?」
猫田部長が、椅子を回転させながら呑気な声で手を振る。
「そうです。身重だと言うのに、子どもたちと川に散歩に行っていいかと。佐奇森さんとヒナさんと母が急いで向かってくれてますが、あの人は自覚がなさすぎる!」
切れ長の、ナイフのように鋭利な瞳が、哀れなほど疲れている。けれど、ハッと思い出したように猫田部長の顔を再び見た。
「あの、猫田部長がこの前、蘇芳さんにくださった天ぷらとお稲荷さん。あれ、どこで買われました?」
「あー、あれね、狐のお嫁さんが切り盛りしてるんだ。駅の、路地裏。『海砂利水魚』だたか『寿限無』だったか。黄昏れ時に現れるけど、――今日はどうかなあ」
「頼まれたんです。そこのお稲荷さんがおいしかったと、頬を膨らませるほど頬張って、すごく可愛いっと」
惚気そうになって口を押えるが、時すでに遅し。猫田部長は転がり落ちそうなほど笑っている。
「本当に、可愛いんです
「ああひーっひひ。分かってる。分かってる。純粋素朴で、綺麗な人だもんね、うーひひ」
「魔女みたいな笑い声、止めてください。もういいです。帰ります」
最近、定時で必ず帰るようにしているので何も言われない。
けれど、つい気が緩むと蘇芳のことを惚気てしまうらしく、仕事中は別の意味で緊張感を持っている。
広い廊下に飛び出し、腕時計を見ながらこれからのタイムスケジュールを決めていく。これ以上仕事が増えたら何かを犠牲にしなければいけない。だが、今抱えている仕事は、白狼しかできなかった。
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