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それでも。7

唇と唇。 マウストゥーマウス。 「わっ、ご、ごめん!」 一ノ瀬は飛び退くと、立ち上がり背を向けた。 「あ、ああ」 俺もゆっくりと立ち上がる。 すると音を聞いた店員が駆け寄ってきた。 「だ、大丈夫ですか!?」 どうやら俺たちの周りにいた客もなんだなんだと集まってしまったようで、辺りはザワついている。 俺には長く感じたが、数十秒かそこらの出来事なんだろう。 心配する店員に、俺と一ノ瀬は大丈夫だと答え、散らばってしまった本や脚立を片付けた。 本屋を後にした俺たちは、一ノ瀬が相談したいことがあるというので居酒屋に向かった。 「さっきはごめんねー、バランス崩しちゃって……。怪我、しなかった?」 道中、ずっと黙っていた一ノ瀬が変な空気を変えようと会話を切り出した。 「ああ、問題ない」 「そっか、良かった」 俺の素っ気ない返答に再び黙ってしまう。 けれど何か言いたげだ。 チラチラとこちらを見てくる。 察しは着いているのだから、早く言ってくれないか。 「………あ、あのさ」 「うん?」 やっと言う気になったのか。 「あの、さっきのなんだけど」 「うん」 「く、唇当たっちゃった、よな?」 「そうだな」 俺は何とも無いような風を装う。 「事故とはいえ、男となんて嫌だよな……? 重ね重ねごめんなー」 一ノ瀬は心底申し訳無さそうに眉を下げた。 そんな風に謝られては、俺の方が申し訳なくなる。 俺はお前に下心を抱いているのに。 「いや、事故だろ、気にするな」 俺は笑って一ノ瀬の頭を撫でてやる。 わしゃわしゃと髪をぐちゃぐちゃにしてやった。 一ノ瀬にとっては事故は事故としておいたほうがいいだろう。 たまたま落下した所に俺の唇があって、唇同士がぶつかった、それだけ。 「わっ、ちょ、やーめーろー」 高校の頃みたいな笑顔を向けられ、安堵する。 ここで俺が事故でもキスはキスだろ、なんて言ってしまえば、やっと築き直した関係が壊れてしまうかもしれない。 それなら、事故としておけばいい。 実際、ただの事故だ。 俺たちはその話題から逸れ、居酒屋へと足を急いだ。

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